平成9年4月26日
松戸オリエント協会創立5周年記念講演会

「 ガンダーラ芸術と西アジア 」 講演 杉山二郎先生 目次
平成9年会報作成 平成10年WEBにUP スライド
ご 挨 拶

松戸オリエント協会会長  小倉  孝(小倉耳鼻咽喉科医院院長)

三笠宮殿下が松戸市立博物館をご見学になられる本日は五月晴れといいましょうか、本当に天候に恵まれました。その中で私たちが殿下にご同行できましたことは誠に幸せなことで、まず、殿下に御礼を申し上げます。

思いおこしますと、この博物館は平成四年の四月ごろに開館されたと思います。
また、私たち町の仲間が集まり、三笠宮殿下が名誉会長をなされていたオリエント学会のご指導によりまして、「松戸オリエント協会」を設立しましたのは同年の九月でした。本日ともに五周年を迎えることになったわけです。

本日、これからこの記念の会に「松戸オリエント協会」の設立に、また、この博物館の設立にもご貢献していただきました杉山二郎先生の一時間半にわたる講演を聴く機会に恵まれました。どうぞ皆さん、ごゆるりとご拝聴のほどお願い申し上げます。有難うございました。


                目     次

はじめに
内臓を持ったお釈迦様
仏教と脳死問題
平岩弓枝さんとの話
祭天の古俗
バウムクーヘン文化
移入された文化・文字
移入された文化・馬
移入された文化・裁縫
移入された文化・仏教
シルクロード
アレキサンダー東征の影響
アレキサンダーの遠征路
仏像をなめる
石の文化と粘土の文化
「昔々・・・」の歴史意識
「幻」を好むインド
ガンダーラにきたギリシア文化
目には見えないお釈迦様
お釈迦様
お釈迦様のサイン
幻のオリエントエキスプレス
オリエントの極東発信地・松戸
学者というもの
「ハナマルキ」のかげで
あとがき

スライドの説明


「ガンダーラ芸術と西アジア」

講演 杉山二郎先生

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はじめに

ただいま「松戸オリエント協会」会長の小倉先生から、博物館と私の関わりについて多少お話がございましたが、もう少しお話をいたしますと、実は亡くなられた先代の市長(宮間市長)から依頼を受けたのです。
そこで私はこの博物館を、できれば日本で唯一の、世界に向かって発信できる博物館にしようとの思いで設立に関わったのです。
幸い先代の市長がそれに賛同してくださり、展示品の準備等、着手に及んだわけであります。

当時この場所周辺の自然環境は大変すばらしいものでした。残念なことに、現在は当初の環境とはいささか変わってしまいましたが・・・・・

私が最初にこの場所を拝見をした頃は、豊富な自然林と沼、そしてその中に野鳥や、いろいろな生き物が住んでいました。

私はそうした自然に溶け込んだ博物館をつくってみたい。
そして広義の博物学という意味で、ただ単に歴史とか考古学というだけでなく、もっと広く自然科学も含めた博物館をつくってみたい、と思っておりました。
そしてこの自然環境を東京の一千万人の市民を相手にするものとしたい、というのが私の願いでございました。

しかしながら当時私は「杉山はほら吹きほら衛門」だ、とか、「杉山は何を一体何を考えてるんだ。地域社会というのはそんなものじゃない」などと言われちゃったんです。今日ここにお集まりの方でそのことをご存知の方もいると思いますが、(笑い)

私の指向していたものは「この博物館を日本から世界への発信基地としたい」いうことで、松戸を単なるチンケな宿場町にしたくはなかったんです。
松戸が持っているものはシルクロードの中のキャラバンシティ、オアシス都市が持っていたものと似ているんですね。
その上松戸という地名自体が日本武尊の伝説(待土)にかかわっているとすれば、松戸史は二千年近くさかのぼることも十分可能であります。

それどころか、実はここ、松戸は「縄文銀座」の拠点であります。

しかし今日では縄文の遺跡が「三内丸山」ほかいろいろなところで発見され、当然のことながら、昔考えられていた縄文文化、すなわちプリミティブな、未開な文化というイメージは全くなくなってしまいました。
人間の文化というものが発展、熟成し、縄文中期から後期、晩期には一体どうなったか、ということを、今まで我々や我々の先輩は過小評価し過ぎていたと思います。

とはいうものの、松戸が縄文中期の銀座、すなわち、縄文のセンターであったという事実から言っても、ここ松戸を日本のみならず「世界へ向かう文化の発信基地」というのも、決して単なる「ホラ」ではないのです。

本日5周年を迎えたこの博物館において、館員諸君によって、かつて収集した品物を世間に出していただきました。
感謝申し上げます。
そしてこの度、東京国立博物館、また池袋のオリエントの博物館ほか多くの方々のご賛同を得て、「シルクロードとガンダーラ展」という、私が当初考えておりましたものの一端が展示され、市民の皆さんに公開することができました。また、この展覧会が開催されることをお聞きになって、三笠宮殿下をはじめ、東京からも多くの方々におこしいただきました。有難いことでございます。

さて、この度展示されているものは一体どういうものか、といいますと、これはただ単にガンダーラという地域的な小さなものではなく、ローマ世界、いや、もっと言えばローマンブリテンの世界につながるものであり、さらにイギリスも範疇に入るものなのです。また、スカンジナビア半島におけるバイキングの文化とも、全く無縁ではない。今展示されているものと同様の物がイギリスやバイキングの遺跡からも出土しているのです。

イギリスやスカンジナビアからガンダーラの仏像が発見されたということは大きな意味を持っているのです。
その一つはシルクロードの拠点の一つのシリアのパルミュラからローマン・ブリテンへの傭兵派遣であります。
もう一つは黒海からダニューブをさかのぼり、「琥珀の道」と「絹の道」が繋がっていたことを立証しています。

ですから、そうしたものも拝借をしても面白かったと思います。
拝借でありますから当然お返しするんですが、お返しする前にそれのコピーをつくっておく。
大体の現物を私は拝見しておりますが、日本のコピー技術をもってすれば、うり二つのものができる。
取りかえて、にせものを向こうへ渡しても、向こうがわからないぐらいのものはできないわけではありませんが、それは道義的な問題でありますから、そんなことはしてはいけないんですが、向こうだって昔は散々海賊をやってたんだから・・・冗談ですが・・・

ガンダーラ仏教美術はそのように世界に広がっているという認識を、まず皆さん方に持っていただきたい、と思います。
そこでここで世界地図を描いみます。
今日の話は当然地中海世界まで入ります。

(黒板に世界地図を書く)
世界地図

日本はちょっと大きく描きます(表紙のもの)。何も縮こまっていることはないですね。(笑) そして壱岐、対馬、竹島は日本の領土でございますから・・・、(笑)
それから、北方四島も日本のものでございますからはっきり描いておきます。
沖縄、台湾、そして海南島も描きます。
今日はそこまでお話がいかないかもしれませんが、ジャワ、セレベス、スマトラ、これがセイロンも描きます。

こうしてご覧になれば、日本という国が、ユーラシア大陸の中でどういう位置にあったか、ということを先ずはじめに頭に入れていただいて、仏教そして仏教美術が日本に入ってくるのに、一体どういう経路をたどったか、についてもお話ししていきたいと思います。

内臓を持ったお釈迦様
今度の展覧会で一番おしまいのところに展示してあった、インド的釈迦さんの像は12世紀の初めごろ日本に入ってきて、今は京都の嵯峨の清涼寺というところにございますお釈迦さんです。
これは宋の皇帝から周然(ちょうねん)というお坊さんが持ってまいりました。三国伝来ないしは優填王思慕(うてんおうしぼ)の像と言います。

陳列してあるものは最近のものでございます。この「然の持ってきたお釈迦さんは寄せ木でつくられているのですが、体の中には五臓六腑が入っているんです。絹や木綿で人間と同じように、心臓から始まり、肺も、胃も、腸も、いろいろな機能が器具でつくって、かなり正確につくられています。しかし、どうして宋の時代にそうしたものがつくられたのか?

それはお釈迦さんという人は「人間」で、いわゆる神様ではない、ということだからなのです。
悟りを開いた人間ですが、あくまでも「人間」だから、ちゃんと五臓六腑というものを持っている。
しかし「脳みそ」がないんです

仏教と脳死問題
仏教では「脳」の意識というものがほとんどなかったんです。だから、先ほどのお釈迦さんも五臓六腑はあるけれども、脳みそはないんですよ。

昨今脳死をもって人間の死とするか、どうか、というのが盛んに取りざたされております。
脳死を考える問題についての学会に私は出たことはありませんが、今、ちょうど私のおります国際仏教学大学院大学で、この問題でシンポジウムをやっています。

仏教のほうでは脳死問題をどのように取り上げているかというと、東大のインド哲学出身者だけでなく、サンスクリットとかパーリ(言語)や仏教教学をお扱いになっている先生方も「脳死」に否定的であるようです。
「心臓を中心とした部分の機能の停止を死とする」というのです。

その原因は、昔も脳というものがあることは知っていたのですが、脳が人間の生活にどのような機能をしていたか、というようなことは、あまり問題にしていなかったからなのです。
一番いい例が、先ほど言った清涼寺のお釈迦さんで、ここに実に見事に、当時の解剖学的な知見が裏書きされています。

ところで、この仏像の目は「玉眼」といいます。鎌倉時代の運慶、快慶が出てくるころから、日本の彫刻の中に玉眼と言って、ちょうど我々人間の目の玉と同じようにリアルに作られています。
それまでは、ただ単に白目と黒目を彫り、そこに描くやりかたでしたが、そうではなく、目の部分に穴を開け、水晶を当てて(ガラスのかわりに)、後ろから紙で黒と白をかいて押さえてある。
リアルな、本物の人間の目に近いように表現しているんですね。

面白いのは、目についてはそうしたリアリティーを追求しながらも、「脳」については、何ら関心を持っていないんですね。
落語の「心眼」の噺ではありませんが心の働きを重視します。
ここが、仏教が「脳死」というものとどのようにかかわるか、という非常に大きなポイントであります。
 
この脳死問題というのは、生きている機能が停止する前に臓器を摘出をして、ほかのところに移植をする。いわば機械のパーツの取り替えです。
それによって、次の世代へそれが利用するいうことで、キリスト教の中においても大論争されている問題です。カソリックとプロテスタントとはかなり違いますが・・・

清涼寺の釈迦(前述・優填王思慕の像)のようなものが、鎌倉の時代に日本でたくさんつくられました。これは、奈良の西大寺を中心としたところ、それから、唐招提寺にもございます。
また、鎌倉の極楽寺というようなところにも、こういうお釈迦さんがつくられている。これらはある意味ではガンダーラ地方に非常に直結したものがあるのです。

ご存知のように仏教はインドで起こりました。インド・ガンジス川の流域でBC6世紀ぐらいに、ゴーダマ=スィッダールタ(お釈迦様)がここで布教を始めた。
これは宗教と考えるよりは、むしろ「哲学」であります。
これを一番的確に表現したのは、有名な和辻哲郎という人の描いた『原始仏教における実践哲学』ではないかと思います。
この論文によって和辻さんは京都大学で文学博士となりました。

しかしこれには異論もございまして、仏教学プロパーの方に言わせると、和辻さんという人は、ほんとうに仏教を理解していたのか、というような意味もあって、今日においても専門の人の間で評価が分かれています。
しかし私は学生の時に熟読して大きな影響を受けました。

平岩弓枝さんとの話
ちょっと話が飛びますが、私は昭和3年に渋谷で生まれました。忠犬ハチ公のところです。
べつに捨て子だったわけではないんですが・・(笑)。

昭和3年頃は、そのハチ公のところでおやじが開業医をしておりました。
おやじも、おふくろも静岡県出身で、おやじのほうは、富士浅間の末社に当たる御殿場の在にあった神官の出です。
どうして神官になったのかというと、江戸の文化・文政の頃、七百石くらいの“こっぱはたもと”(木っ端旗本)だったらしいのですが、それが江戸でしくじりまして、逐電をして神官に化けたんですね。
それで私に「神官の家で、何で仏教をやるの」なんて質問をする人がいるんです。

ついこの間、「飛鳥」という船に乗ったんですが、平岩弓枝さんという女流作家が乗ってきた。あの人は代々木八幡の神官の娘で、だんなさんも神官であるらしい。お父さんもそこの根っからの神官です。
僕は、あの人の小説はあまり読んだことはないんですが、NHKの『御宿かわせみ』とか、『はやぶさ新八御用帳』を見ましたが、現代物もたくさん書いておられます。
あの人のおもしろいのは、話がものすごくうまいことですね。私が知っている限り、作家で書いたものと話が両立するという人はあまりいない。松本清張さんにしても、井上靖さんにしても、どちらかというと、話よりは書いたものがおもしろい。これが普通です。

ところが、平岩さんという人が、あんなに見事な話術を持っているとは思わなかった。
大体「飛鳥」という船の乗客は、平均年齢が私と同じ68ぐらいで、じいさん、ばあさんばっかりが乗っている。この人たちを相手にして、「笑わせる」ことは私だってできないことはないけれども、「泣かせる」というのはなかなかできないんですよ。

彼女の話というのは、ばあさんを泣かせるんですな。
私も、女の人を泣かせてみたいというのは昔からの念願だったんですが(笑)・・・・・
じいさんはともかくとして、ばあさんを泣かせた」というので、大いにあの人に敬意を払った。
私のところに人からもらった象の頭をしたおもしろい像があるんだが、象が頭で像ですから、語呂が合いますな、なんて話を始めました。

平岩さんが「その像は聖天とは聞いているけれども、どういうものですか」というので、私が、あれはガネーシャと言って、シバ神の息子の一人で、これがちょうど私と同じ非常にやんちゃで、言うことを聞かないので、そのおやじが、「おまえみたいなやつは!」と象の首にすげかえちゃった。
これがやがて日本に入ってきて、聖天になりました。

聖天にもいろいろあるのですが、合体をすると秘仏になります。これは富貴の願望ですね。金もうけ、または延命というおめでたいものなのです。だから普通にお飾りにしておくようなものじゃなくて、元来はしまっておくものですよ、というようなお話をしたのですが、そんなことから話がはずんで、かなり意気投合いたしました。

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祭典の古俗
先ほどここは「縄文の銀座」だと申し上げました。
となると、縄文における宗教は、どんな形だったかという問題も当然出ていいでしょう。
先ほど三笠宮殿下とちょっとお話をいたしましたが、殿下はこの縄文の文化というものに非常にご関心をお持ちになっている、と拝察しました。

昭和天皇様は生物がお好きで、みずからお田植えもなさった。
昭和天皇様がお田植えをなされたのは、農業という意味ではなく、これは「祭典の古俗」という意味です。

「祭天の古俗」、これが神道の本質であります。
このことをはっきり指摘したのは、明治時代の久米邦武という先生で、「神道は祭典の古俗なり」という有名な論文を書いたのですが、これで東大を追放になって、早稲田へ行っちゃったんです。

この「祭天の古俗」というのは一体何なのか。
神道は江戸の中期ごろに、伊勢神道とか、垂加神道とかが出てきて、組織化されたものをもって「神道」というのです。
天を祭るためのいろいろな諸儀礼を天皇様は行ってこられたのです。

今の平成天皇様も同じように、我々がノホホンとしているときに、やはり「祭天の古俗」をなさっておられます。この「祭天の古俗」は弥生あたりから出てきた、と言ってもいいと思います。
すなわち農耕儀礼というものが、主軸になっておりますが、もちろん縄文文化のものを持っております。皆さん方はごらんになったことがあるかもしれませんが、「削り掛け」という、白木に飾りをつけるものがありますが、これは縄文の遺制です。

今日、天皇家の儀礼は「弥生」文化を中心としておられますが、その中に縄文儀礼が隠れているということも指摘することができます。

ですから、日本は必ずしも弥生の稲作農家から発生したのではなくて、もっと古い伝統を持っている。
そこのところに殿下は大変なご興味をお持ちになっておられるご様子ですが、これは日本人のルーツを考える基本であります。

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バウムクーヘン文化
縄文の文化の遺物はこの松戸からいろいろと出てきます。日本文化の一番古い部分です。
日本は独自の文化を創造したのではなくて、土器づくりをはじめ、あらゆるテクノロジー、思想でアジア大陸から入ってきたものを再構築したのです。

ですから「日本の縄文土器が一番古い」などというのは、戦争中の八紘一宇につながっちゃうようなもので、そのうち日本の持っていた土器文化が、大陸へ出かけていった、などという理解につながりかねない。
私は、これはとんでもないことだと思っております。
それだからといって、日本人は何にもできなかった、というつもりはない。
西方ないしは南方からやってきた文化が「重層」して、見事な形につくり上げられたのが日本文化です。
これは、お菓子で言うと「バウムクーヘン」ですね。

バウムクーヘンというのは、年輪みたいになっている。まさに私は、日本の文化というのは、まさに「バウムクーヘン文化」で、これを一層一層ずつはがしていくと、日本文化の層がどういう形で来たかということがほぼ理解できるはずです。
日本の文化というものは、見事に重層された、重ね合わせてある「重層の文化」なんですね。

しかしお隣の国は非常に気の毒なことに、この「重層文化」というものを持っていない。
古代から周りの影響とか、圧迫という、非常に不幸な歴史を持っていました。
明治になって、日本がお隣に総督府を作ったから、というより、古い三国の時代から李朝まで、文化形成を行うのに非常に気の毒な条件下にあった。
ある意味ではパッセシュタット(通過国家)という部分もあります。
日本の文化のエッセンスを築き上げて日本文化とした。みんな日本に入ってきたものが、日本で築き上げられた、と申し上げていいと思います。今の政治情勢の中で、そうした意見をお隣は容認しないようですが、・・・。

しかし、西アジア、東アジア、南アジア、北アジアから日本を分析しますと、ほぼ私が今申し上げたようなところに、帰着せざるを得ないのではないかと思います。

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移入された文化・文字
文化の伝来の中で一番大きなインパクトがあったのは、応神天皇のときに、中国の文化・漢字が入ってきたことです。

朝鮮の学者が持ってきた『千字文』と『論語』を、日本の莵道稚郎子(ウジノワキツイラツコ)という方が勉強なさって、もっと知りたいと言ったら、じゃ、王仁(ワニ)という偉い先生がいる、ということで、文字文化が根づいていきました。

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移入された文化・馬
もう一つは「馬の文化」です。

馬というのは、遊牧騎馬民族の象徴です。本日ご臨席を願いたかった元オリエント学会会長の江上波夫先生(文化勲章受賞者・前日本オリエント学会会長)は、戦後、「遊牧騎馬民族王朝征服説」で旋風を巻き起こしました。

日本の天皇家というのは、大陸の騎馬王朝が、あるところでなりかわった、ないしは征服したのだ、と言う説です。
「馬の文化」は応神期に入ってきました。
その後応神から仁徳天皇の頃に馬の文化は顕在化された、と江上先生はおっしゃっておられます。
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移入された文化・裁縫

もう一つは、裁縫です。
裁縫というと、皆さん方は、針と糸を使う縫い物、とだけをお考えになるでしょうが、もっと大切な意味がある。
あるものの寸法を決めて、それを縫い合わせるということで、そこで「度量衡」が必要となってきます。

余談ですが、今日はそういう方はあまりおられませんが、大学へ行くと、夜寝る時着てたままで出てきたんじゃないか、というような格好をしてくるやつがいる。
一日のメリハリのない連中だ。
私は一日のうち三度着がえます。まあ、そこまでやる必要はないでしょうが、生活のメリハリをつける、人間存在を時間の中で規定するのが衣服なんですね。
これは有名なカーライルという人が『衣裳哲学』のなかでとりあげています。生活のメリハリのリズムというのは、裁縫文化による、という認識を持たないといけないんですね。

それまでは「貫頭衣」と言って、一枚の布の真ん中に穴をあけて、すっぽりかぶって、腰で結んでいたのですが、それがちゃんと袖のあるものとか、襟があるものにしたのが「裁縫術」と言われていますが、裁縫の持っている意味はそれだけではない。生活の日々のリズムが、衣服によって変わるだけでなく、身分制という問題にもかかわっている、ということも注目に値します。

そして貫頭衣が南方文化とすると、筒袖・ズボン形式の騎馬スタイルは北方文化との関係があるのです。
裁縫術も応神天皇期に入ってきました。
これは中国からとも、また朝鮮半島から来たとも言われています。
有名な秦氏というグループが京都います。有名な太奏に、広隆寺に行ったグループがその本体だとも言われています。大阪平野にもいます。
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移入された文化・仏教

そして欽明天皇のときの仏教伝来です。
仏教伝来は、日本書紀では 552年、欽明天皇戌午の年。けれども、これは日本書紀に錯簡があり、有名な元興寺縁起流記資財帳、また法王帝説によると、これは 538年です。

昔学校では皇紀で言いましたから、お年寄りの人は、「仏教伝来イチニイチニと日本にやってきた」で皇紀1212年と覚えている方がいるはずで、私もそう覚えたんです。
(※戦後はゴミヤ<538年>が拾った仏様・・・編集部)

552年(実際には538年)に、百済から瀬戸内を越えて、飛鳥に入ったというのが仏教の公伝であります。
その時に初めて天皇家が認知したのです。飛鳥というのは琵琶湖の東、奈良の都の南にありました。

しかし、本当はそれよりもほぼ 100年ぐらい早く、今日の北朝鮮、高句麗という国からおそらく海流に乗っかってこちらへ来て、そしていろいろなところに伝わっていったのです。
その証拠に、アルプスから日本海側にわたって「小金銅仏」がたくさん出ています。戦後に発見されたものを見ますと、おそらく高句麗系の人たちがポータブルな、要するに持ち運びのできる仏像を持ち込んで進行していたようです。

それらの仏像は大体ブロンズです。今回の展示品の中にも少しブロンズがありますので、後で注意をしておいていただきたいと思います。

ブロンズというものは、まさにテクノロジーの塊で、それによって鋳造技術とか、鍍金とか、いろいろな技術も付随して入ってきたのです。
仏教が飛鳥に入るよりも一世紀ぐらい早く、高句麗の仏教文化が日本海から入って流布して、アルプスを越え、長野県、信濃の国には入ってきたのです。

長野はおもしろい仏像があるだけではありません。
ここには「積み石塚」的な、石を組んで造った古墳もあります。
これは高句麗文化が入ってきた証拠です。
だからそこには、小金銅仏というものが付随しているはず、というのが私の考え方です。
日本の文化の成立は近隣の国々や地域から漂流したり、亡命したり、また日本人が呼んだ人たちに負うところが多かったのです。

北魏という仏教文化を持った国と高句麗は同じ民族で、日本文化に影響を与えました。高句麗は遊牧騎馬民族の拓跋(たくばつ)族の分れで、元来ツングース系でした。
遊牧民・拓跋(たくばつ)族の分れが仏教に帰依して仏教文化という大きな花を開かせました。そこの中心の一つは大同というところで、その郊外に雲崗石窟というところがあります。

やがて北魏は南下して、洛陽に遷都をしました。洛陽に竜門石窟という大変立派な石窟をつくっています。その起源を辿りますとシルクロードを遡ることになります。

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シルクロード

シルクロードは洛陽・長安から発してまず蘭州、敦煌に行きます。そして天山山脈を越えて、いよいよシルクロードに入ります。ここにカスピ海がございますね。

ここから南下してバビロンに入る。もう一つはここを北上してシリア砂漠を横切ります。ここからビブロスあたりが後のスライドで出てきます。
それからバビロンの南の死海へ、そしてヨルダン川を抜けて、ペトラを通じてシナイ半島、紅海を結んでいます。

シルクロードというものの持っている意味はいろいろあります。
敦煌は北梁という、北魏よりもちょっと早い王朝がこの付近で起こったころのキャラバンシティです。
そして敦煌の郊外には有名な敦煌千仏洞があります。

この千仏洞の考え方というのは、言ってみれば、ここに一つはロップノールという湖がある。
この辺りにローランとミラーンのオアシス都市がある。
スゥエン・ヘディンという学者がこの辺りを調査して、この湖が移動するので「彷徨える(さまよえる)湖」と申しました。そしてトルファン、クチャ、コータンがあります。

シルクロードというのは、天山山脈の南北に三つのルートがありますが、そうしたキャラバンシティが砂漠の中に点在しています。その一つヤルカンドがあります。
それから、これがサマルカンドなんですね。それから、これがゼレイ。そしてケルマーンシャー、そしてバビロンに結んでいくシルクロード。

このシルクロードのコースを話しますと、それだけで1時間はたっぷりかかります。

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アレキサンダー東征の影響
シルクロードの西の方はどのように開かれたかと言いますと、それは「アレキサンダーの東征」によります。


アレキサンドロスがマケドニア、現在の東欧圏あたりから起こり、ギリシャを制圧する。そして、一転して、このダーダネルスを抜けて、アレキサンダー東征が始まります。そしてここでつくったのが有名なアレキサンドリアです。彼はもうちょっと先まで行って戻ってきます。

シルクロードがバビロンに入って、それからここにペルセポリス。ここがスーサです。ここを抜けて、スワートからさかのぼってこれにジョイントして、今日のパキスタンないしてはアフガニスタンに行きました。
サマルカンドの郊外にアフラシアブというアレキサンダーが攻め落としたという遺跡が残っております。アレキサンドロスは 323年、バビロンで亡くなりました。
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彼は、さらに東のほうへ移動する。それは中国の絹を求めて移動したというのが、今日ではかなり有力な説であり、私の先輩で天理大学におられた鈴木治先生が主張しておられるものです。
鈴木先生は実に博覧強記で、天理の文献を駆使し、また卓抜した構想力でアレキサンダーは絹を求めて東征したのだが、挫折して戻ったということを極めて明快にご指摘になられた。

私は、これに大賛成であります。
これが天山北路であるか、天山南路の北道であるか、南道であるかはわからないが、軍隊を引き連れて移動しようとしたと思われいますが、傭兵がこれ以上戦争をするのは嫌だというので、急遽引き返えすんです。

水軍から補給を受けて陸軍を引き連れ、インダス川をくだっていくんですが、バルチスターンというところは大変なところで、昭和 41年私もバスラから神戸まで40日、鉄鉱船に乗って旅行したことがあります。ペルシャ湾のペルシャ側もすごいが、それよりもっとすごい。
アレキサンダーは、水軍から補給を受けて陸軍で行進して行ったのですが、うまくいかなくて、ほとんど全滅の状態でバビロンに帰ってくる。しかしながら、シルクロードの西半分はアレキサンダーのその時の東征によって開けたと申し上げてよろしいでしょう。

アレキサンダーが西アジアに持ってきた文化の一つは「ワイン文化」であり、ワイン文化に附属したディオニュソス「酒の神様」、ローマ人のいう「バッカス」を中心としたいろいろな祭儀も動いてきます。

もう一つは、「石の文化」です。
ギリシャから石像と石工が一緒に西アジアからインドに入って石を機能化させシルクロードの都市をつくった。

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仏像をなめる

皆さん方が今日ごらんになったものの過半は青色片麻岩という石で、ガンダーラの辺りから出たものです。これは私の品物ですから、どうぞ後でごらんいただいて「撫で回して」ください。
 
こうした彫刻は、プラスティッシュと言いますが、彫刻というものは撫で回して面構成を理解する必要がある。ガラスケースの中に入っているのを見るだけでは、ほんとうに理解したことにならない。

私は東京国立博物館で三十年いましたが、この間彫刻を撫で回しました。日本の主な彫刻というのは、みんな私の手あかがついるんですよ。
正倉院のものも、興福寺の阿修羅も私がもぐったことがあるから、どこかに私の指紋がくっついていますよ。唐招提寺の仏さんにも、全部私の指紋がついています。

所有して触る、ということは単なる優越感じゃないんですよ。
それで面構成というものを会得するんだから。
しかしほんとうは手で撫で回すだけでも不十分で、ほんとうはなめないといけない。(笑)

本物、贋物の判定基本は、実はそこに帰着いたします。
なめもしないで本物、贋物なんて言っているやつにろくなやつはない。
なめなければわからない。
変なものは、舌にぴりっとくるんですよ。舌にぴりっときたら、これはみんな贋物だ。
なぜかというと、贋物を本物に見せかけるために、薬品を使っているからなんです。だからなめればすぐわかるんです。

木のものもそうで、私がそれを「なめる」と言うと皆さんはお笑いになるけれども、茶道でも、茶わんと唇がまず接するという事が大事なんです。飲む、ということだけじゃない。

茶道でお茶を飲むということは、器と唇をもって対話をするというところから始まって、次にお茶のにおいと味覚ということになるんです。
自分の舌でまず体験をし、初めて物というものとの対話が完成するわけです。
今の若い連中は、やたらとベーゼとかキスだとかをやっているが、ほんとうに理解しなくちゃいけないのはほんとうに人間を理解するには、そこから始めなくちゃいけない、という信念でやっていただかないと、キスがキスにならない。
そういうことをちょっと申し上げておきたい。(笑)
だから、後でなめたい人はなめていいですよ。私のものだからね、これは・・・・・

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石の文化と粘土の文化

縄文土器はこういうもの、なんて言うより、先ず大きさを肩幅を基準にして見る。
肩幅より小さいものはポータブル、つまり動かすことのできるもの。
肩幅より大きなものは、「据え物」です。

「据え物」の器の口を見ますと、大体こぶしが二つ入るか入らないものは液体をいれるものです。ヒエとかアワとかを入れるものはもっと口が広いものです。液体をいれるものか固体を入れるものかを区別するのは、大きさと口を見ると見当がつくんです。
そういうことから縄文の人たちは、土器をどのように機能化していたか、という問題にたどりつく。

ガンダーラで石の文化が活性化した」ということをまず覚えておいていただきたい。
ガンジス川、インダス川、チグリス・ユーフラテス、これは全部「粘土文化」の地域です。
石で物を作るのは非常に金がかかる。モスルというあたりからは石が出ますが、この下へ行けば行くほど、石というのは高価になるんです。

この石というものも、ある以上の大きさになっちゃったらどうしようもない。移動できない。
移動できるものを持つというのは、よっぽどの金持ちでなければできない。
先ほどポータブルと言ったけれども、肩幅より小さいものを持っているというのは、ある意味でステータスです。

ところで石の文化の起源は一体どこかといいますと一つはナイル文明であります。
ピラミッド、そしてカルナック、ルクソールなど大神殿。
アブシンベル。ここでは石というものを完全に機能化している。
特に上ナイルにある石を切り出して、ナイル河を利用して下ろして使っているということがよくわかる。

もう一つはギリシャです。
私はこの間地中海の船の中からアテネの辺を見ました。遠くから神殿がほんとうに白く輝いている。




シルクロードを媒体として、石を機能化したギリシャ文化、エジプト文化が、ほとんどが粘土の文化であるガンダーラに動いてきた、ということをお考えいただきたい。

ガンダーラは石の産地でありますから、石窟があったり、サンチーやマトゥラというところでもやたらと石を使っていますが、「石を機能化する」ことをインド人に教えたのは、やはりアレキサンダーの東征をもって最初とします。
ですから、このシルクロード文化とは一体どういうものであるか、については今度展覧されている「石」をキーワードとし考えていただかざるを得ないんです。

パンジというのは五つという意味です。1、2、3、4、5はエカ、ドヴァ、トリ、シャトラ、パンジと言いますから、パンジャアブとは五つのアブ(水)です。ペルシャ語もアブと言いますね。パンャアブは五つの水があるところ、すなわち、五河地方の意味です。

ギリシャ文化がアレキサンダーによってガンダーラで培われ、ギリシャ人がバクトリアと言われている地方を中心に植民いたします。インド・グリーグスと呼ばれる人たちのいたところです。
ギリシャがインドにどのような影響を投げかけたか
そのキーワードは「ガンダーラの芸術がどのような性格のものであるか」を解き明かすことであります

それに関する本は幾つかあるのですが、私が一番最初に読んで感動したのは、ウィルヘルム・ターンという人の『ザ・グリークス・イン・バクトリア・アンド・インディア』 (W.Tarn ; The Greeks in Bactria and India)、すなわち、『インドとバクトリアにおけるギリシャ人の活動』という大きな本で、一九三八年に初版が出ました。私が手に入れたものは、一九五一年に改訂されたものです。
そこにはギリシャ文化が、どういう形でガンダーラに根づいて、どう変化したかということが実に克明に書いております。

インドでは、A・K・ナラインという人が『インド・グリークス』( A.K.Narain ;Indo
- Greeks)『インド、ギリシャ人』という本を書きました。これはわりに薄い本です。しかし、当然ターンの説に乗っているだけあって、新しい問題が提起されている。

もう一つは、ウッドコック(G.Woodcock)という人が『インドにおけるギリシャ人』
(The Greeks in India)という本を書いている。
それを読むと、「ガンダーラ美術が、どういう形で出てくるのか」ということを考える非常に大きなヒントになります。

しかし面白いことにインド人というのは、これは不思議なことに、「歴史意識」というのがないんです。

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「昔々・・」の歴史意識
中国は歴史意識があるところ。
だから、有名な司馬遷の『史記』から始まり、漢書、後漢書という二十四史、それから清史稿を入れると二十五史。中国人は歴代を実に細かく記録してきた。

ところがインドには記録がない。
極端にいうと「昨日は昔」になっちゃうんです
だから、今日を起点にして過去を見るときには全部が「昔」になっちゃう。
これがインド人の非常におもしろいところで、未来の区別は多少ないわけじゃないけれども、過去は、一週間前も、二千年前も全く同じであります。
これはみんな「昔々・・」という言い方になります。

おとぎ話の桃太郎の「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんが居りました・・・」という表現は、中国でもなければ、日本でもない。
ルーツはみんなここ、インドにあるんです。

過去が全部「昔々」という部分に組み込まれてしまう。地域限定も、また時間限定も五年前なのか、百年前なのか、千年前なのかわからない、というのがインドなのであります。

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「幻」を好むインド

インド人のもう一つの性格である「幻想を抱く」というのがそれでよくわかります。
中国は、どちらかというと、すべて文章をもってする性格がある。規定、限定の概念が先ずあります。

インド人は、まやかしみたいな「」「まぼろし」を好むのです。無限定なのですね。
それによって、宇宙は成り立っているという考え方が出てくるのです。
そして初めて「」や「ゼロ」などという概念が出てくるんですね。

ゼロ」、これは大変な発見であります。
皆さん方の中でお読みになった方があるかもしれないけれども、吉田洋一という人が岩波新書で『零の発見』という本を書きました。
私も、あれでゼロというものに対する認識というのが非常に深まった。インド人の発見です。


私の小学校のときの記憶をたどって申し上げますと、小学校の三年のときに、足し算、引き算、掛け算、割り算の有限数に加えて、はじめて「ゼロ」が出てくる。
「ゼロ」に有限数を足しても引いても変わらない。
ところが、「ゼロ」にどんな大きな有限数を掛けても割っても、みんなゼロになる。これは皆さんご存じですね。

僕は子供のときに、先生に「どうして掛けたり割ったりしたらゼロになるんですか」という質問をしたんです。
そうしたら、そのときの先生は、「そういうふうになっているんだ。おまえはすぐ理屈をいうが、そうなっているんだから、それを覚えないと先へ進めん」なんて言ってましたが、ある時「ゼロ」について私自身発見しました。

「ゼロ」は宇宙で言うとブラックホールなんですね。
ブラックホールの周辺にいた星は、その中に入らなければ常に光っているけれども、一端、中に飛び込んだらなくなっちゃうでしょう。
それが「ゼロ」の概念なんじゃないでしょうか。
この「ゼロ」という概念から、「空」という仏教の根本問題に差しかかっていくんですね。
今日は、そういう話をするつもりはありません。

えっ、もう時間もあと十分しかない?
果たしてガンダーラにたどり着けるかどうか・・・・、(笑)
まあ、たどり着かなくたってどうということはない・・・。

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ガンダーラにきたギリシャ文化

ギリシャ文化というのは、非常に即物的です。
数学にしても、なんにしても、いろいろなものが持っている非常にラショナル「合理性」を持って動いている。
そうした合理的な民族文化が、初めてガンダーラでインド文化「幻」とぶつかるんです。

紀元前2世紀頃、ギリシャ人の申し子みたいな、ギリシャの哲学が好きなメナンドロスという王様がいました。

周りにソフィスト・哲学者を集めて、のべつ問答をやって、負けることがないと豪語しているんです。そこへ仏教の坊さんのナガセーナという男が問答を挑んだ。

このいきさつは、最後に、このインド人にメナンドロスは屈伏して、仏教徒になった、というのですが、これは有名な「ミリンダ王問経」という経典になっている。

『ミリンダ王問経』のミリンダというのは王様。正しくはメナンドロス、バッシィレウス・メナンドロイといいます。
インド人のナーガセーナはこれを那先と音訳しており、「サンスクリット」で「那先比丘経」というお経になっています。「弥蘭陀(ミリンダ)王問経」はパーリ語です。
これは、インド的な物の考え方とギリシャ的なものが対決して問答をしている、実におもしろい本です。
このことについて、私は東大に入って、中村元先生の比較思想論という講義を受けていたときに、先生はギリシャ思想とインド思想の対決という問題を取り上げられて、 「この原典をまず読む必要がある。漢訳でもいいからこれを読まなければ、ギリシャ的な思惟とインド的な思惟の違いがわからない」とおっしゃられました。
そこに出てくるインド的な物の考え方と、ギリシャの物の考え方とがぶつかったのは、実にこのガンダーラなんですよ。


あの仏像も、この仏像もほとんどギリシャ的な顔つきをしている。
たまにはインド人的な顔があるけれども、それは脇役で、オーソドックスなものはみんなギリシャ的な顔つきをしています。

元来がギリシャ神話の中に出てくる有名なゼウスもあります。しかしこれは非常に珍しいものです。
ゼウスがワシを使ってガニュメデスという美男子を誘惑している形につくった彫刻がありますが、ワシの後ろにいるのはガードマン。後で抱きかかえられているのは女の人です。
このガニュメデスの伝説というのは、ゼウスがワシに化けて、美男をかっさらっていくというものだったのですが、いつの間にかこういう形になったのです。
仏教のなかで、インド的な思惟とギリシャ的な思惟が、いろいろな形で変容をしていくといういい例なのです。

陳列されている中にも、いろいろおもしろい問題が隠れておる。
私があそこで一点一点について克明に説明すれば、三十分で出るというのはとても不可能で、少なくとも二時間、あそこに釘づけにならなければ、外へ出られない。

ガンダーラのあるところは昔は北西インドと言ったのですが、今はパキスタン、アフガニスタン、一部はロシア領トルキスタンです。
そしてこのあたりはまさに人種の「るつぼ」で、パキスタンの町、ペシャワールというところがいかに人種の展覧会であるかがわかる写真を撮ってきました。
ギリシャ人に近い人種やほんとうのギリシャ人、そしてイラン人、またスキタイ系の人もいる。もう少し行くと、メソポタミア。またはセム系とハム系の人たちがペシャワールに登場するんですね。


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目には見えないお釈迦さん

このようにガンダーラというのは昔から国際都市だったのです。そこで国際的に受け入れられたお釈迦さんは偉い人なのですが、同時にインドの「幻」でもありますから原始仏教の彫刻や絵では人間として表現されませんでした

始仏教では、お釈迦さんが居たはずのところに菩提樹とか、仏足と言う、お釈迦さんの足跡で表現する
またほんとうは馬に乗っているんだが、馬だけを表現する。上に日よけだけがあるが、乗っているお釈迦さんは表現していない。

これがインド固有の、先ほど言った「幻」というものの考え方で、ある条件を備えた者は、見ることができるけれども、一般の人は、見ることができないというようなことになっていたんです。

ところが、仏教がこのガンダーラに入って、全部人間の表現に変わった。
オリンポスの十二神を人間で表現したように、釈迦を人間として表現するようになりました。

ガンダーラ美術の持っているグローバルな点をお話しましたが、そのグローバルさということは、シルクロードを通って入ってきたギリシャだけでなくインドの文化もまたここへ入ってきた、ということなのです。
言ってみれば、インド人の考えているもの、またギリシャ的な、メソポタミア的な、ヘブライ的な、イラン的な要素が全部ここガンダーラで集合して「大乗仏教」に発展したといいうこともできます


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お釈迦様

釈迦は釈迦族出身で、インドに入ってゴーダマ・スィッタルダ、釈迦牟尼、すなわちお釈迦さんになりました。
お釈迦さんというのは遊牧騎馬民族出身で、アーリア民族です。むにというのは無常の人という意味です。

お釈迦さんは実在の人間で、生まれたときには、お母さんの右脇から生まれ出たということになっていますが生まれてすぐ七歩歩いて、「天上天下唯我独尊」と言ったという、ヒネッコビタ子だったんです。

そして三十五歳で結婚して、子供をもうけてから、人間の生病老死についての苦悩の末、それからいかに解脱するかを考えるようになった。
35歳から40歳の間、修行を重ねて、ついに悟りを開く。これが菩提樹の下です。

人間の死を克服するもの。そうした我々自身の心について問題をもう一度真剣に考えてみるところから始まるんですが、その辺のいきさつは非常に複雑です。ところがお釈迦さん一人だけが悟りを開いた仏陀ではない。

西方には極楽という不老不死の理想社会がある。そこにはアミターバという阿弥陀さんがいる。
アミターバというのは、無量の光を持ったという意味です。ミターブというのは光で、アがつくと無限のという意味。

そしてアミターユス。
これは限定された寿命を超えた、不老不死。どこかに不老不死の光明に輝いた理想社会がある。これを経典に移したのが有名な『浄土三部経』であります。

インドには香料があります。モルッカ諸島からこの辺は香料の産地です。
香料というのは、ただ単に、においがいいというだけじゃない。これも同時に人間の心をいやすんですね。香辛料としても機能化している。

お薬師さんは東方瑠璃光薬師というのですが、お薬師さんのいる所もいい香りの浄土があるに違いないということで、これも出てくる。
しかしお薬師さんとか阿弥陀さんというのは、原始仏教には全くで出てきません。

「華厳経」のなかにおけるバイロウチャナ、大日如来さんも当然ここで考え出されたものでありますが、原始仏教から大乗仏教に展開していくことが、ここガンダーラの彫刻からわかるんです。

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お釈迦様のサイン

皆さん方がお釈迦さんを見ると、右手をあげて左手は膝のところで掌を上にしていますね。あれは「施无畏(せむい)与願の印相」というんです。


この施无畏印というものはインドでは出てきません。
これはメソポタミアにおける神と帝王との契約の思想で、西部劇でシェリフを任命するときに、右手を挙げて「宣誓」するあれだ。
右手を挙げるのは「契約の思想」の象徴であります。

この「契約の思想」というのはインドにはない。
インドは神様がたくさんいすぎて、とても契約しきれない。
日本はもっとひどい。八百万の神なんかとはとても契約しきれない。

ところが向こうは唯一の神と契約を結べば済むんですよ
ガンダーラで初めて「契約の思想」が入ってきた。
「施无畏」というのは、向こうがお願いをしたときに、「よっしゃ、引き受けた」と言う形だ。

田中角栄という人が「よっしゃ」とやったじゃないですか。あれなんですよ。
角栄の「よっしゃ」は西アジアから来たんです

与願の一方の手は掌を上にして膝の上に置いていますが、これはこの上へお願い事を乗っけろという形であります。胸のところで両手を連結する、これは「説法印」というものです。両手をおへそのところで掌を上にして組んで親指と親指を合わせる印相は「禅定印」と言って、ものを考えているという形。

インドでなぜそうした印相というものが手できたか、というとインドでは古くからパントマイムがあったからなんです。
口でしゃべらないで、形でやるドラマ。形でお話しする。

それらがガンダーラで「禅定印」とか「説法印」とかいう形で再構成されたんです。
「触地印」という形は、左手をひざから下へおろす。これは電気のアースで、妄想がすっ飛んでいく。「降魔印」もいいます。

考え方を組織化する、というのがまさにギリシャ的な物の考え方で、大乗仏教の成立から考察しても、東南アジアの仏教とガンダーラ仏教とは違うことが判る。

ちょっと脇道に行きますが、スリランカなどで東南アジアのお坊さんに、「小乗」なんて言うと、お坊さんはいい顔をしません。
「あなた方のは上座部の仏教だ」と言うと、非常に喜びますから、この辺をご旅行なさるときには、そちらのお坊さんには「上座部の方ですな」と言いなさい。
待遇が変わります。これは、私はやってきたんだから間違いない・・・

タクラマカン砂漠を越えて中国を通ってきたものと、南方から海を通って入ってきた仏教とはこうした違いがあります。
仏教は先ほど言った北魏からだけではなく、南の呉、三国志の孫権の呉からも百済を通って日本に入ってきました。日本の飛鳥朝には二方向から入ってきた仏教があったのです。

北の方、シルクロードを通って高句麗から入ってきたものを「北伝の仏教」、そして海を通って入ってきたものを「南伝仏教」といっています。
ガンダーラのものは北伝です。
北伝の仏教では帝王というものを非常に大事にしていました。また、太陽が宇宙を象徴していると考える。これは有名な「華厳経」というお経となりますが、南伝ではそんなことは絶対考えることはないんですね。
 
このように皆さん方は今日の展覧作品をごらんになって、ガンダーラというところがどのような地理的な条件の中で、どのような意味を持っているのかという事が理解できれば一層興味が湧くと思います。
これは、どこから出たか? タクシラから出たとか、スワート地方か、またアフガンのどこから出たのか? というのを調べることももちろん必要ですが、私は、むしろ、まずこの大きな地図を頭に入れていただきたいと思います。
そして私も、それらがどういう形でここに顕在化したか、ということを言わないというと、シルクロードとガンダーラ美術の講演ににならないと思っております。

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幻のオリエントエキスプレス
またちょっと話しを変えますが、私は、実はこの博物館にシルクロードを象徴する「おもしろい材料」を持ち込みたいとかねて思ってきました。
それは「オリエントエクスプレス」(オリエント急行)です。

ボスポラス海峡(トルコ)を起点とするオリエントエクスプレス。
イスタンブールに行って、ガルタ橋をこえるとそこに大陸横断鉄道のステーションがある。私は、そこの列車全部とはいわないが、ダイニングカー、つまり食堂車をこの博物館に持ってこようと思っていた。

これは今から八年ぐらい前で、今でも覚えておりますが、実に立派な食堂車で、車内は中は全部マホガニー。クッションもすばらしい。上にシャンデリア。
これはまさにアガサ・クリスティの『オリエントエクスプレス』の中に出てくるのと全く同じものです。
そして、ダイニングセットも銀のナイフやフォーク、そして見事な食器。それらが全部入って約八千万円でした。
あわよくば松戸に持ってこようと思ったんだけれども、この夢ははかなく消えた。もし今日、オリエント急行の食堂車がここの博物館にあったら面白かったでしょうね。

そしてオリエントエクスプレスのステーションもここに復元をする。そして、この鉄道のイメージによって、やがて向こうからここにやってくるようなところにする。
なんてったってまだ日本に一台も入っていなかったんだから。早い者勝ちだった。
今からやろうといっても、二億円出しても買えなくなっちゃった。だからいま僕は安心してしゃべっているんだ。(笑)

二億円出すなんていうと、他の奴に先取りされちゃうかもしれないが・・・
まあ、いずれにしても後悔先に立たず、引かれ者の小唄ですが・・・・

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オリエントの極東発信地・松戸

とにかく、松戸を東京の隣のチンケな単なる「通過点の宿場」なんてものにしたくない、という意味であえてこんな絵をかいたんです。

松戸には陸前浜街道(水戸街道・国道6号線)も通っている。そしてこの街道は水戸様につながっている。水戸様につながっているということは、大変なことだ。
また海岸べりに行くと一方では東海道、また北へ行けばやがては蝦夷の地に到達するという活性化された道路でした。

活性化された条件の一つは、鎌倉幕府と江戸の幕府の存在で、あえて言うと、松戸はそうした鎌倉や江戸と同じ条件を持っているんです。だから世界に打って出る発信点はここ、松戸しかない、ということで、こんな構想をやったんだけれども、私も追放の憂き目に遭いまして、・・・・

今、こんなところで地団太踏んだってしようがないんだが・・・・。

しかし、松戸という地域は決して我々が考えている小さなものではないんですよ。ここから何が発信できるか、ということは、これからの我々の在りようによります。

この会場には、殿下をはじめとして、東京からお出ましいただいた方がおられますが、また地つきの方もかなりおられる。
こうした所を媒体として「松戸をどうするか」をもう一度考え直していただき、やがて関東をどうするか。そしてやがては日本全国をどうするか、を考える機会としていただきたいと思います。
朝鮮半島をシルクロードの終点としてはいけません。

先ほどちょっと触れましたが、面白いことはガンダーラと同じ物が一つはイギリスから出てくることです。またバイキングの遺跡からも出ている。
となると、ガンダーラ・シルクロードの取り扱うところは、当然グローバルな、すなわち、ユーラシア大陸の東から西のすべてを包含するという問題が浮かび上がってくる、というようなことをこうした機会にぜひお考え頂きたいと思います。

このあたりは「縄文の銀座」です。
そしてこの博物館には縄文文化も平常陳列されているようです。
しかし縄文はここよりもだんだん周辺の中で、いいのが出てきちゃった。一番いいのは「三内丸山」だ。あんなものが出てきちゃったら、もうここは縄文では太刀打ちするのが大変だ。

だから、一刻も早くそういうものから足を洗って、もうちょっとでかい構想の中でやることこそ、成果あるんじゃないか、と思うんですが・・・。

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学者というもの

なにはともあれ、開館から五年経ちましたが、当時の品物を展示していただいたことに、私は感謝したい。
もしあのまま埋もれていたら、こんなところで私が話をすることはまずありえません。

先ほど会長さんのご挨拶のように、松戸オリエント協会は、三笠宮様がお作りになったといっていい「日本オリエント学会」のご指導でできましたが、オリエント学会によって、我々学者は自由に研究をしたり、それからまた海外に出ていける。
我々松戸オリエント協会はチンケなものであるには違いないが、とにかく5周年を迎えることができました。
日本の都市はいくつかのオリエント協会があります。今日ここにお出ましいただいている、「栃木オリエント協会」さんにも松戸の協会設立にあたっては大変お世話になりました。

学者というのは、よっぽどでないと銭金に関係がないんです。
銭金を稼いでくるのができるというのは、まあ、吉村作治と私ぐらいでありまして・・・、(笑)
吉村作治は「ハナマルキ」とかやって稼いでいますが・・・・。

聖徳大学で講演中の吉村先生
第35回日本オリエント学会大会

僕もちょいとこんなことやりながら、なんとかやっているには違いないけれども、元来学者というのは、そういうことが甚だ不得手なんです。また私はそれでいいと思うんです。
皆さん方にそういう事をご理解をしていただいて、学者が自由に研究ができる環境のお手伝いをしていただきたいと思います。
しかし、それは、やがてオリエント学会を中心として、世界に発信することができる重要な要素を持っている。我々も協会という形の中で賛助させていただく。
つまり、よりよき研究成果というものを心から喜んで、そしてまた、さらに大きなものへ発展していくように、我々は後押しをすべきだと思います。

これが私の考えの粗筋でございますが、時間がもう十五分超過いたしたそうですが、私はしゃべれというと、猿ぐつわかまされない限り、何時間だってしゃべってるんですから・・・。(笑)

この間も、「飛鳥」というのに乗ったときに、「あの男は一体どれだけしゃべれるか、エンドレストーキングをやろう」という話が出てきたんです。聞き手が参るか、話し手が参るかと言うんだな。
私はそのときに、「やってもおれが勝つに決まっている。そのかわり、そこにはビールを一ダース置け。それを飲みながらやったら、おまえたちが束になってかかってきても負けっこない」なんて言ったんですけれども、ま、こんなことは“まともな学者”のやることではない。(笑)

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「ハナマルキ」のかげで

これは「ハナマルキ」に出る彼も同じでして、あれもやっぱり逸脱をしている。
しかし、吉村作治氏は研究費用をあれで賄っているんです。これをお忘れにならないようにね。
ああいうところに出て、「ハナマルキ」なんていったものが、全部あいつの懐に入るなんて思っちゃいけませんよ。
あんなことをやって、全部早稲田ハウス(研究室)の五十人くらいを食わせておるんです。

皆さんも吉村作治氏の「ハナマルキみそ」を見たときには、彼は顔で笑って心で泣いているんだと察して、彼に一滴の涙を注いでいただきたい。

これが同僚として、皆さん方にぜひお願いしたいことであります。

時間が経過いたしました。大体以上をもってこのお話を終わりたいと思います。
ご静聴ありがとうございました。(拍手)

それから、皆さん、ここへ出てちょっと先ほどの石仏を見てください。なめてもいいですが、かけらを持っていっちゃ困りますよ。

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あとがき
4月26日、創立5周年を迎えた松戸オリエント協会は記念講演を杉山先生にお願いして、「ガンダーラと西アジア」という演題で松戸市立博物館で開催することになりました。
当日は松戸市立博物館が同じく開館5周年を迎えての記念特別展覧会「シルクロードとガンダーラ」開催のさなかでした。杉山先生の講演の中で松戸市立博物館とシルクロード、そして先生との関わり等についてのお話もありましたが、不思議な縁を感じます。

ところでいつもそうですが、講演の編集というのはなかなか楽しいものです。
編集することによって、講演を復習することになり、講演の内容がしっかり頭に刻み込まれます。

しかしながら、杉山先生のお話は「時間当たり言葉の分量」が相当あり、おしまいはいつのまにか目的地にたどり着いているのですが、アカデミック且つダイナミックに展開するので、聴いて楽しい反面、テープを起こし「文章の活字」にする事はなかなかの難事です。

そうしたわけで、このたび皆様に楽しく読んでいただけるものとするべく、先生の御許しを得て、「話言葉」を無理に「文章言葉」に変えることなく、会場の雰囲気とともに、お話しをできるだけそのままに表現させていただくことに致しました。

アレキサンダーにつれられてシルクロードをたどり、途中インドに立ち寄り“”の発見をしながら、お釈迦様の「ヨッシャ」のサインを教えていただき、なんとなくギリシアからガンダーラまでたどり着いてしまった、という感じでした。
おまけにハナマルキ味噌汁付きのオリエント急行」にまで乗せていただきながら・・・・、
まさに楽しく編集させていただいたけたのですが、お読みにならた皆様も、当日のお話を思い出していただけると同時に、さらに「知ることの楽しさ」を満喫していただけたとしたら編集させていただいたものとして、なによりも幸いと存ずるところです。

松戸オリエント協会の手作りの会報ゆえ、行き届かぬ点、また見苦しいところも多々あるかとは思いますが、そうした点は是非ともお許し戴きたく、切にお願いいたします。
おそくなり申し訳ございませんでしたが、なにはともあれ創立5周年の記念会報を御届けできることになり、ほっとしているところです。
有難うございました。
松戸オリエント協会 『志乃能萌』 文責・稲葉

本誌中に掲載した写真および資料は以下の文献から転載させていただきました。

杉山二郎先生
松戸市立博物館
タイムライフ
講談社+中国人民美術出版社


志乃能萌  (しののめ )  第5号

創立五周年記念号
   
発   行   松戸オリエント協会
発 行 日   平成9年8月吉日

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