| beer | |||||
| お神酒は麦酒(ビール)(p55) | |||||
| 日本では穀物といえば米であり、アルコール飲料といえば米から作る日本酒、お酒もまた当然のことながら日本酒である。ところが、最近では、日本でもアルコール飲料というえば日本酒やワインと並んで、麦酒(ビール)が好まれている。 ビールが日本に伝えられたのは幕末といわれ、明治初年には醸造が始まった。それから百数十年経って、今では日本酒以上にビールが飲まれている。暑い夏だけではなく、暖房が完備したために冬でもビールが飲まれるようになった。アルコール度数が低いこともあって、男性のみならず、女性もビールを好むようである。「乾杯」にもビールを使うことが多い。 ところで、ビールはどこで最初に作られたかご存知だろうか。答えはシュメルである。 ビールはシュメルで生まれ、シュメルでは本来お神酒はビールだった。「灌奠(かんてん)」つまり、お神酒などを注ぐことをシュメル語ではカシュ・デ・アといい、これは字義通りには「ビール(カシュ)を注ぐこと」である。 |
|||||
| drink | |||||
| 文明人の飲み物 (p56) | |||||
| 現在のイラクでは国民の大多数がイスラム教徒であるから、アルコール飲料は禁忌である。だが、イスラム教徒の多い国でも、エジプトやトルコのようにアルコール飲料に関してかなり寛大な国もある。 古代メソポタミアの人々はビ−ル、ぶどう酒、蜂蜜酒、なつめやし酒などのアルコール飲料を楽しみ、ことにビールを嗜むことは文明人の証であった。 『ギルガメシュ叙事詩』(古バビロニア版P)では、ウルク市の王ギルガメシュの友人となるエンキドゥははじめ 「パンをどのように食べるかを知らず、ビールの飲み方を教えられていなかった」 とその野人ぶりが表現されて、エンキドゥはパンを食べ、ビールを飲むことを覚えてようやく人間らしくなったと書かれている。 |
|||||
| megami | |||||
| 女神が醸造したビ−ル (p57) | |||||
|
|||||
| ビールと醸造を司る神はニンカシ女神という。ニンカシとは 「口を一杯にする女主人」 の意味である。『ニンカシ女神讃歌』 にはビールパンを使い、発酵しやすくするためになつめやしや蜂蜜を加え、「肝臓を幸福にし、心を喜びで満たす」
ビールを醸造する過程が書かれている。 ビールの種類は 「黒ビール」 「褐色ビール」 「強精ビール」 などと多数あり、神々に捧げられ、人々に分配支給されることもあった。 円筒印章などの図柄にはストローを使ってビールを大きな割から飲んでいる図がある。当時のビールは濁り酒であったので、表面に麦の殻が浮いてしまうため、ストローを使ったようだ。 また、ビールは杯では飲まず、杯で飲むのはなつめやし酒であるともいう。 シュメル人は含蓄に富ん諺が数多く残しているが、そのなかに現代人も納得するビールについての諺がある。二つ紹介しよう。
|
|||||
| natsume | |||||
| 「聖樹」なつめやし | |||||
| シュメル人が勤勉に働いても、大麦などの穀物が常に豊作とは限らない。不作の年もあった。 穀物が実らなければ人々は飢えることになる。だが、シュメルにはなつめやしがあった。「大杯」にも大麦とともになつめやしが描かれている。なつめやしは「農民の木」ともいわれて大切にされていた。 なつめやしは耐塩性が強く、穀物が不作でも栄養価の高いなつめやしが実れば飢えを凌げる。 大切な木であるから、前一入世紀の『ハンムラビ「法典」』にもなつめやしの果樹園に関する条文がいくつか見られる。果樹園は河や運河沿いにあった。なつめやしからは酒や蜜が作られ、乾燥なつめやしは旅の携行食糧となった。 メソポタミアの美術ではなつめやしがさまざまなデザインで表現され続けた。豊能を司るイナソナ女神の手にはなつめやしの房が握られ、新アッシリア帝国時代(前1000頃−609年)に王宮の壁面を飾った精霊像は、しばしば抽象化された「聖樹」なつめやしの木の左右に配されている。 |
|||||
| colm | |||||
| コラム 【なつめやしの使い途】 |
|||||
| 日本でも干したなつめやしを食べることができる。干し柿に似た味で、イラン、サウジアラビアそしてアメリカ産の干したなつめやしがスーパーマーケットなどで売られている。 日本は、イラクからは石油と抱き合わせでなつめやしを輸入していた。19911年(平成3年)1月に「湾岸戦争」が勃発した当時、イラク産のなつめやしが話題になった。イラク産のなつめやしはパンやクッキーの隠し味、お好み焼きや焼きそば用の濃厚ソースの原料に利用されていた。ソースびんの裏側の原料表示を読むとデーツ(なつめやし)と書かれている。そのデーツを戦争が勃発したために輸入できなくなったので、ソ−ス業者が困ったという。 12年後の2003年(平成15年)、「イラク戦争」が勃発したときに、ある放送局が「湾岸戦争」当時のことを覚えていて、今回はどうしているのかを取材して放送した。ソース業者は前回にこりて、半年分のなつめやしをしっかり備蓄していたそうである。 |
|||||
| fog | |||||
| 豚もいた(p69) (※シュメルの飲食事情・・・編者挿入) | |||||
| ・・・イスラム教ではアルコール飲料が禁忌であることは紹介したが、豚を食べることも禁忌である。ユダヤ教でも豚は汚れた動物で、犠牲に供えることも食べることも許されなかった。 (『旧約聖書』「レビ記第11章七節」、「申命記第14章八節」) イスラム教やユダヤ教ではなぜ豚を食べることを禁忌としたのであろうか。豚肉はおいしいので遊牧民が豚肉の味を覚えると争いの種となる、豚肉の寄生虫は怖い、豚は穀物を食べさせる必要があるので不経済であるなどのいくつかの理由が挙げられるが、本当のところはわからない。 初期王朝時代第VB期ラガシュ市の行政経済文書には「葦の豚」「草の豚」と書かれていることから、葦や草のはえている所で飼っていたのだろうが、豚に穀物も食べさせていた。月ごとに支出される大麦などの穀物を記録した会計簿の中に、豚の飼料として支出された項目もある。 シュメル人は豚肉を食べたが、一般に羊肉の方が上等と考えられ、好まれたらしい。豚肉は女奴隷の食べ物考えていたようで、次のような諺が残っている。
そうはいっても、食べものの好みは一概にはいえず、犬の餌にもされている豚肉を后妃が食用とした記録もある。 また、豚の飼育は女性の仕事であったようで、こうした例は羊や牛には見られない。豚は肉だけでなく、皮や脂も利用し、ことに豚の脂は皮膚に塗られていた。日本のような湿度の高い土地では身体に油を塗ることはあまりしないが、シュメルでは直射日光から肌を守るために戸外で働くさいに豚の脂を塗っていたようだ。 |
|||||
| fish | |||||
| 魚好き(p70)(※シュメルの飲食事情・・・編者転記挿入) | |||||
| 肉だけでなく、シュメル人は日本人と同様に魚が好きだった。両河やペルシャ湾からさまざまな種類の魚がとれたので、魚の名前も多数あるが、シュメル語で書かれた魚の種類を特定することは難しい。 魚にまつわる面白い諺を一つ紹介しよう
亭主と息子が稼いでくれるのに、人生を謳歌する女房には魚の骨を抜いてくれる愛人がいた。魚を一緒に食べることは深い仲の二人ならではだった。 |
|||||
| oxf | |||||
| 「饗宴の場面」 第四章 シュメル版合戦絵巻 戦争のはじまり (p122〜123) | |||||
| ・・・ところで、イギリスのオックスフォード大学東洋学科ではシュメル文学などの全文書を編集し、英語約をつけてインターネットで公開するという大きな計画が進行している。 このウェブサイト(http://www-etcsl.orient.ox.ac.uk/edition2/general.php)を開くと、なんと「饗宴の場面」上段が出てくるが、よく見るとデスクトップのパソコンを操作しているではないか。イギリス人研究者のユーモアに脱帽である。 |
|||||
| (p122〜123より) | |||||
![]() |
|||||
| http://www-etcsl.orient.ox.ac.uk/edition2/general.php | |||||