beer
農業の風景
お神酒は麦酒(ビール)(p55)
日本では穀物といえば米であり、アルコール飲料といえば米から作る日本酒、お酒もまた当然のことながら日本酒である。ところが、最近では、日本でもアルコール飲料というえば日本酒やワインと並んで、麦酒(ビール)が好まれている。
ビールが日本に伝えられたのは幕末といわれ、明治初年には醸造が始まった。それから百数十年経って、今では日本酒以上にビールが飲まれている。暑い夏だけではなく、暖房が完備したために冬でもビールが飲まれるようになった。アルコール度数が低いこともあって、男性のみならず、女性もビールを好むようである。「乾杯」にもビールを使うことが多い。
ところで、ビールはどこで最初に作られたかご存知だろうか。答えはシュメルである。
ビールはシュメルで生まれ、シュメルでは本来お神酒はビールだった。「灌奠(かんてん)」つまり、お神酒などを注ぐことをシュメル語ではカシュ・デ・アといい、これは字義通りには「ビール(カシュ)を注ぐこと」である。
fog
豚もいた(p69) (シュメルの飲食事情・・・編者挿入)
・・・イスラム教ではアルコール飲料が禁忌であることは紹介したが、豚を食べることも禁忌である。ユダヤ教でも豚は汚れた動物で、犠牲に供えることも食べることも許されなかった(『旧約聖書』「レビ記第11章七節」、「申命記第14章八節」)

イスラム教やユダヤ教ではなぜ豚を食べることを禁忌としたのであろうか。豚肉はおいしいので遊牧民が豚肉の味を覚えると争いの種となる、豚肉の寄生虫は怖い、豚は穀物を食べさせる必要があるので不経済であるなどのいくつかの理由が挙げられるが、本当のところはわからない。

初期王朝時代第VB期ラガシュ市の行政経済文書には「葦の豚」「草の豚」と書かれていることから、葦や草のはえている所で飼っていたのだろうが、豚に穀物も食べさせていた。月ごとに支出される大麦などの穀物を記録した会計簿の中に、豚の飼料として支出された項目もある。

シュメル人は豚肉を食べたが、一般に羊肉の方が上等と考えられ、好まれたらしい。豚肉は女奴隷の食べ物考えていたようで、次のような諺が残っている。

脂身はおいしい
羊の脂身はおいしい
女奴隷にはなにを与えようかしら
彼女(=女奴隷)には豚のハム(あるいは臀【しり】の肉)を食べさせておけ

そうはいっても、食べものの好みは一概にはいえず、犬の餌にもされている豚肉を后妃が食用とした記録もある。
また、豚の飼育は女性の仕事であったようで、こうした例は羊や牛には見られない。豚は肉だけでなく、皮や脂も利用し、ことに豚の脂は皮膚に塗られていた。日本のような湿度の高い土地では身体に油を塗ることはあまりしないが、シュメルでは直射日光から肌を守るために戸外で働くさいに豚の脂を塗っていたようだ。
fish
魚好き(p70)シュメルの飲食事情・・・編者転記挿入)
肉だけでなく、シュメル人は日本人と同様に魚が好きだった。両河やペルシャ湾からさまざまな種類の魚がとれたので、魚の名前も多数あるが、シュメル語で書かれた魚の種類を特定することは難しい。
魚にまつわる面白い諺を一つ紹介しよう

私の夫は私のために(穀物を)積み上げてくれる。
  私の子は私のために(生活用品を)くれる。
  私の愛人には魚の骨をとらせよう。

亭主と息子が稼いでくれるのに、人生を謳歌する女房には魚の骨を抜いてくれる愛人がいた。魚を一緒に食べることは深い仲の二人ならではだった。
drink
文明人の飲み物 (p56)
現在のイラクでは国民の大多数がイスラム教徒であるから、アルコール飲料は禁忌である。だが、イスラム教徒の多い国でも、エジプトやトルコのようにアルコール飲料に関してかなり寛大な国もある。
古代メソポタミアの人々はビ−ル、ぶどう酒、蜂蜜酒、なつめやし酒などのアルコール飲料を楽しみ、ことにビールを嗜むことは文明人の証であった。
『ギルガメシュ叙事詩』(古バビロニア版P)では、ウルク市の王ギルガメシュの友人となるエンキドゥははじめ 「パンをどのように食べるかを知らず、ビールの飲み方を教えられていなかった」 とその野人ぶりが表現されて、エンキドゥはパンを食べ、ビールを飲むことを覚えてようやく人間らしくなったと書かれている。
megami
女神が醸造したビ−ル (p57)

シュメルでは豊かに実る大麦やエンメル麦からビールが盛んに作られ、その製造法はここからエジプトにも伝播したようだ。
ビールはビールパン (麦芽パン、醸造用パン) に水を加えると自然発酵することから偶然発見されたらしい。発見したのは女性であろう。日本の古代社会で酒をかもすのに女性が重要な役割を果たしていたことは民俗学の研究などでよく知られているが、シュメルでも女性が最初にビールを作っていたようである。
甕からストローでビールを飲む p57】

嚢からストローでビールを飲む 円筒印章印影図

ビールと醸造を司る神はニンカシ女神という。ニンカシとは 「口を一杯にする女主人」 の意味である。『ニンカシ女神讃歌』 にはビールパンを使い、発酵しやすくするためになつめやしや蜂蜜を加え、「肝臓を幸福にし、心を喜びで満たす」 ビールを醸造する過程が書かれている。

ビールの種類は 「黒ビール」 「褐色ビール」 「強精ビール」 などと多数あり、神々に捧げられ、人々に分配支給されることもあった。
円筒印章などの図柄にはストローを使ってビールを大きな割から飲んでいる図がある。当時のビールは濁り酒であったので、表面に麦の殻が浮いてしまうため、ストローを使ったようだ。
また、ビールは杯では飲まず、杯で飲むのはなつめやし酒であるともいう。
シュメル人は含蓄に富ん諺が数多く残しているが、そのなかに現代人も納得するビールについての諺がある。二つ紹介しよう。

ビールを飲みすぎる者は水ばかり飲むことになる。
楽しくなること、それはビールである。
    いやなこと、それは(軍事)遠征である。
natsume
聖樹なつめやし
シュメル人が勤勉に働いても、大麦などの穀物が常に豊作とは限らない。不作の年もあった。
穀物が実らなければ人々は飢えることになる。だが、シュメルにはなつめやしがあった。「大杯」にも大麦とともになつめやしが描かれている。なつめやしは「農民の木」ともいわれて大切にされていた。
なつめやしは耐塩性が強く、穀物が不作でも栄養価の高いなつめやしが実れば飢えを凌げる。
大切な木であるから、前一入世紀の『ハンムラビ「法典」』にもなつめやしの果樹園に関する条文がいくつか見られる。果樹園は河や運河沿いにあった。なつめやしからは酒や蜜が作られ、乾燥なつめやしは旅の携行食糧となった。
メソポタミアの美術ではなつめやしがさまざまなデザインで表現され続けた。豊能を司るイナソナ女神の手にはなつめやしの房が握られ、新アッシリア帝国時代(前一〇〇〇頃−六〇九年)に王宮の壁面を飾った精霊像は、しばしば抽象化された「聖樹」なつめやしの木の左右に配されている。
colm
コラム
【なつめやしの使い途】
日本でも干したなつめやしを食べることができる。干し柿に似た味で、イラン、サウジアラビアそしてアメリカ産の干したなつめやしがスーパーマーケットなどで売られている。
日本は、イラクからは石油と抱き合わせでなつめやしを輸入していた。1991年(平成3年)1月に「湾岸戦争」が勃発した当時、イラク産のなつめやしが話題になった。イラク産のなつめやしはパンやクッキーの隠し味、お好み焼きや焼きそば用の濃厚ソースの原料に利用されていた。ソースびんの裏側の原料表示を読むとデーツ(なつめやし)と書かれている。そのデーツを戦争が勃発したために輸入できなくなったので、ソ−ス業者が困ったという。
12年後の2003年(平成15年)、「イラク戦争」が勃発したときに、ある放送局が「湾岸戦争」当時のことを覚えていて、今回はどうしているのかを取材して放送した。ソース業者は前回にこりて、半年分のなつめやしをしっかり備蓄していたそうである。
hohten
最古の法典
ウルナンム法典」』
トルコ革命によって、1922年に消滅したオスマン (・トルコ) 帝國は、イランを除いて、古代オリエント文明が栄えた地域を16世紀以降ほとんど支配していた。このオスマン帝國の長期にわたる瓦解の課程で、イギリス、フランス、ドイツなどの列強が帝國主義政策のもとに侵略し、発掘もおこなわれ、多くの粘土板文書が出土した。欧米の博物館や大学に膨大な数の粘土板が持ち出されたが、オスマン帝国の旧都イスタンブルにあるイスタンブル考古学博物館には粘土板文書が多数収蔵されている。その多くはいまだに未解読である。
さて、1952年に、イスタンブル考古学博物館に収蔵されていた粘土板写本の断片が、現存する最古の 「法典」 であることをシュメル学者クレーマーが発表した。これが 『ウルナンム「法典」』 であって、シュメル語で書かれた、現存する最古の 「法典」 であるが、ウルナンム王 (前1212−2095年頃) の息子、シュルギ王 (前2094−2047年頃) の時代に作られたと考える研究者もいる。
ゥル第三王朝時代になると、統一国家も成熟段階にはいり、社会正義の擁護者として、王の権限を目で見える形で表すようになった。これが法典や王讃歌の成立の理由であり、王の神格化なども挙げられる。
なお、「法典」 とかぎかっこ付きで表すのは、法典を 「序文、本文および酢舶で構成され、立法の意義も明記されている法集成」 と定義すると、『ウルナンム「法典」』 を 「法典」 と呼ぶには問題があるためである。また、同時代の裁判記録に 「法典」 への言及が見られず、現実に公布・施行された法であったとは考えがたい要素もある。そこで、かぎかっこ付きで暫定的に 「法典」 と呼んでいる。
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法典の構成
『ウルナンム「法典」』 は、ニップル市、ウル市から出土した断片が知られていて、序文のほぼ全文と約30の条文が復元され、さらに研究が近年進展している。30条の内容は次の通りである。 
第1条
第2条
第3条
第4・5条
第6・7条
第8条
第9−11条
第13・14条
第15条
第17条
第18−22条
第24−26条
第28・29条
第30〜32条
殺人
暴行(?)
不法拘束
奴隷の結婚
仮結婚中の処女の暴行と妻の不倫
強姦
離婚
神明裁判
仮結婿の解消
逃亡奴隷
傷害
女奴隷
偽証
農夫、小作人の責任

第12、16、23、27条は欠損箇所が大きく、内容がわからない。
条文はまず 「もし・・・ならば」 と条件節があって、「・・・すべきである」 と帰結節が続く。条件が異なれば、当然帰結も異なってくる形式で、こうした形式を 「決疑法形式」 あるいは 「解疑法形式」 という。後代の 『ハンムラビ「法典」』 もこの形式で書かれている。
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やられても、やりかえさない
以下では条文を一つ一つ見てみょう。それぞれ 「もし人が・・・ならば」 と和訳されるが、この 「人」 とは 「人」 を意味するシュメル語のの訳であり、具体的には 「自由身分の男性」 を指すと考えられている。


第1条

もし人がほかの人の頭に武器を打ち下ろしたならば、その人は殺されるべきである。
第2条 もし人が強盗を働いたならば、殺されるべきである。

殺人や強盗は死刑とされていた。ただし、「盗人にも三分の理」という彦が我が国にはあるが、殺人や強盗を犯した人間にもそれぞれの理由があるわけで、シュメルでも正当防希は認められていたようだ。
第18−22条は傷害罪に対する罰則である。

第18条

もし [人が・・・でほかの人] の足を傷つけたならば、彼は銀10ギンを量るべきである。
第19条

もし人が棍棒でほかの人の[・・・骨]を砕いたならば、彼は銀1マナを量るべきである。
第20条

もし人が・・・でほかの人の鼻を傷つけたならば、彼は銀3分の2マナを量るべきである。
第21条

もし [人が・・・」 で [ほかの人の・・・] を傷つけたならば、[彼は銀・・・マナを] 量るべきである。
第22条

もし 〔人が・・・〕 で 〔ほかの人を〕 歯を叩いたならば、彼は銀二ギンを量るべきであるべきである。
([] は欠拐箇所で、[] 内の語は訳者が補った。
 1ギン=約8.3グラム、1マナ=約500グラム)

シュメル人の社会では 「やられたら、やりかえせ」 「同害復讐法」 は採用していなかった傷害罪は賠償で償われるべき、つまり銀を量って支払うとの考え方が採用されていた
シュメル社会には鋳造貨幣 (コイン) はなく、銀を量って支払いをする秤量 (ひょうりょう) 貨幣であった。

hamlabi
ハンムラビ法典」』の傷害罪
『ウルナンム「法典」』 と同じ罪を約三〇〇年後の 『ハンムラビ「法典」』 はどのように裁いただろうか。
『ハンムラビ「法典」』 は、シュメル人が蔑視した北西セム語族に属すマルトゥ人 (アモリ人) が建てたバビロン第一王朝の第六代ハンムラビ王 (前1792−1750年頃) が前18世紀に制定したものだが、ここでは遊牧民社会の掟である 「同害復讐法」 が採用されている。

第196条

もし人が (ほかの) 人の目を損なったならば、彼 (=被害者) は彼 (=加害者) の目を損なわなければならない。
第197条

もし人が (ほかの) 人の骨を折ったならば、彼は彼の骨を折らなければならない。
第199条

もし (人がほかの) 人の奴隷の目を揖なったならば、彼はその (奴隷の) 値段の半分を払わなければならない。
第200条

もし人が (ほかの) 人の歯を折ったならば、彼は彼の歯を折らなければならない。

これが有名な 「目には目を」 を表す条文だが、実際の裁判の場では、裁判官の自由裁量の余地があり、必ずしもこの通りの処罰がおこなわれたとは考えられない。
「同害復讐法」 の考え方はユダヤ教、イスラム教の世界にも見られることから、西アジア世界の法といえば、「目には目を、歯に歯を」 の 「同害復讐法」 であって、イラクでは古代から現在にいたるまでずっと続いているように誤解されているが、シュメル人の法律を見れば、決してそうではないことがわかる。
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奴隷の結婚
シュメル人の結婿の実態となると、わからないことが多い。それでも、『ウルナンム「法典」』 にはいくつかの結婿にかかわる条文がある。
奴隷の結婿について、第4、5条には次のように書かれている。

第4条


もし男奴隷が気に入った女奴隷を娶ったならば、そして (その後に) 男奴隷が自由を与えられるとしても、彼 (あるいは彼女) は (主人の) 家から去るべきではない。
第5条





もし男奴隷が自由民 (の女性) を娶ったならば、彼は息子の一人を彼の主人に奉仕させるべきである。その子が主人に奉仕する代わりに、父の家の財産のその半分を 「父の家」 の壁から分けたとき、その自由民の子は主人によって所有されるべきでないし、奴隷身分を強要すべきでない。

男性奴隷と自由身分の女佐との結婿が可能であった。このことは自由民と奴隷との境界があいまいな社会であったことを表している。奴隷の子には奉仕義務が生まれるが、財産の半分を主人に与えることで、奴隷ではなくなった。

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新妻の災難
シュメル社会では、女佐は財産を所有でき、事業で契約を結ぶことができ、裁判に出廷して証言することができたが、かといって男性と平等であったということではない。


第6条


もし人が若い男性の(床入りを済ませていない)処女である妻を、暴力に及んで犯したならば、その男性は殺されるべきである。
第7条


もし若い男性の妻が自分の意思でほかの男性にしたがい、彼と性的関係を結んだならば、その女性を殺し、(相手の) 男性は解放されるべきである。
第8条


もし人が人の (床入りを済ませていない) 処女である奴隷身分の妻を暴力に及んで、犯したならば、銀5ギンを量るべきである。

第6、8条は床入りを済ませていない新妻が犯されたときにはという、やや衝撃的な条文である。その新妻が自由民か、奴隷かによって、刑罰に差があるのは身分制社会ではしかたないことである。また、第7条では、夫の不貞は問われずに、妻の不貞は死罪としているが、これは法の下の男女平等に反することを理由に1947年(昭和22年)に廃止された我が国の「姦通罪」を思わせる。

結婚があれば、離婚もある。離婚となれば今も昔も慰謝料である。
第9条

もし人が彼と対等 (の身分?) の妻を離婿するならば、彼は銀1マナを量るべきである。
第10条

もし人が未亡人 (であった再婿の妻) を離婿するならば、彼は銀二分の一マナを量るべきである。
第11条


もし人が正式な書かれた契約書なしに未亡人と佐的関係を結んだならば、彼は (離婿にさいして) 銀を量る必要はない。

初婿の妻と再婿の妻では支払われる慰謝料の額がちがっているし、内縁関係だと慰謝料なしであった。

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神明裁判
傷害罪では賠償で償うという進歩的な規定が採用されているが、一方で古代人ならではの神明裁判も見られる。
『日本書紀』によれば、我が国の古代社会には 「盟神探湯 (くがたち) 」 といわれる神明裁判があった。甕 (かめ) に湯をわかして、これに小石などを入れて、被疑者あるいは訴訟当事者に取り出させ、手がただれるかどうかで、罪の有無あるいは主張の真否を判断する方法をいう。
現代人はこうした判断を非合理的と一笑に付すが、古代人はそこに神の意思を見た。シュメル人も古代人であって、河の神に裁きを委ねていた。


第14条


もし人が若い男の妻を乱交の故に訴え、河の審判が彼女への疑いを晴らしたならば、彼女を訴えた男は銀3ギンを量るべきである。

乱暴なことだが、「あそこの奥さんは浮気をしている」 と後ろ指を指され、訴えられた妻は河に飛び込まされた。水泳ができる、できないの問題ではなく、潔白ならば河の神が助けてくださるはずだとシュメル人は考えていた。当然、潔白を証明した妻は訴えた男から賠償金をとることができた。
現代人には理解しがたい考え方だが、河の神に裁きを委ねることは次章で紹介する 『サルゴン王伝説』 や 『ハンムラビ「法典」』 でも見ることができる。

fuufu
夫婦の情景
夫婦像 ニップル市出土 p168】
最後に、一対の像を見ていただこう。

ニップル市から出土した祈願者像である。石膏製の男女の座像である。碑文は刻まれていないが、長く連れ添った夫婦の情愛と結婚生活の満足感を表現している像だという。
だが、微笑ましいだけだろうか。
手をとりつつも、そっぽを向いた顔には夫婦とはこんなものといったあきらめが垣間見えるようにも思える。
このあたりの微妙な心理を見逃さなかったシュメル人の彫刻師の人間観察はなかなかのものである。
シュメルの 「結婚」 についての諺は普遍的真理であろう。

お前の好みで妻を娶れ、お前が望んだときに子供を持て。
  彼にとって楽しいこと (は) 結婚、よく考えて離婚。
  
gakko
学校の生活
学校の謎々
天の如き基礎を持つ家
水瓶の如き基礎を持つ家は亜麻で覆われていて、
鵞鳥の如く (堅固な) 基礎に建つ家、
開かれていない目を持つ者がそこに入り、
開いた目を持つ者がそこから出て釆た。
その答え (は) 「学校」。

シュメル語の 「謎々」 である。シュメルには書記を養成するための学校があった。学校の屋根には砂埃と熱暑を避けるために亜麻布がかぶせられていたようだ。

ユーフラテス河中流域のマリ遺跡では、バビロン第一王朝 (前1894−1595頃) のハンムラビ王 (前1792−1750年頃) に滅ぼされた、最後の王ジムリ・リムの王宮から粘土製の長い椅子が並べられた部屋が発見された。これは学校と考えられた。だが、教科書は発見されていない。

学校はシュメル語では、エドゥブバ 「粘土板の家」 と呼ばれ、書記つまり役人養成を目的としていた。官僚制の整ったメソポタミアやエジプトのような社会では役人は不可欠で、役人ともなれば文字の読み書きが必須条件であった。

子供に文字の読み書きを教えることは親でもある程度まではできるが、それよりも子供を集めて、教えることの上手な大人が教えた方が合理的であると考えたようだ。それが 「学校」 の誕生である。

【上・マリ王宮で発掘された学校 p205】
【下・学校の教室復元想像図 p168】
nazo
世界最古の謎々
神々の名前だけが羅列されているリストを読まされ、神名が書けるように繰り返し習字を指導された生徒たちはたいくつであったと思う。生徒たちが面白く学びながら、神々の名前などを書けるようにするために工夫された教材が 「謎々」 であった。前項で紹介した 「謎々」 もその一つだが、さらに古い、前二四世紀頃の最古の 「謎々」 が発見されている。

1968年からラガシュ市のラガシュ地区 (現代名アル・ヒバ) の発掘がメトロポリタン美術館とlこ−ヨーク大学とによって始まり、多数の文書などが出土した。このなかに世界最古の 「謎々」 が含まれている。

この謎々では、都市の各地区にとって重要な運河名および守護神名に続いて、魚と蛇の名前が挙げられ、地区の名前を当てるようにできている。シュメル地方はペルシア湾岸の低地であって、河や運河そして泊地が入り組んでいて、夏は高温になる。こうした場所にはさまざまな魚や蛇が棲息していただろうし、また魚と蛇はトーテム (ある集団の象徴あるいは守菱神となる特定の動植物) であったとも考えられている。
欠損箇所が多くわかりにくいが、一部を紹介しよう。

その運河はシララギン、その (守護) 神は気高いナンシェ女神、その魚は 「人を喰う」、
その蛇は [・・・]。(中略)
その運河はエンア [ガル]、その神はアブズ(=深淵)の大使者へンドクルサグ神、その魚は蛇魚、その蛇には角がはえている。(中略)
その運河は [・・・]、その守護神はエンリル神の大戦士ニンギルス神、その魚は
[・・・] その蛇は [・・・]。
  

最初の 「謎々」 は、かいつまんでいえば 「シララギン運河が流れ、ナンシェ女神が守る地区、その名前はなんでしょうか」 となり、ここには答えが掲載されていないが、ナンシェ女神の名前が書かれていることなどから、答えは 「シララ地区」 になる。

次はラガシュ地区の守蓑神へンドクルサグ神の名前が見えることから、答えは 「ラガシュ地区」 を指している。

最後の 「謎々」 は、かいつまんでいえば 「シララギン運河が流れ、ナンシェ女神が守る地区、その名前はなんでしょうか」 となり、ここには答えが掲載されてないが、ナンシェ女神の名前が書かれていることなどから、答えは 「シララ地区」 になる。
次はラガシュ地区の守護神ヘンドゥルサグ神の名前が見えることから、答えは 「ラガシュ地区」 を指している。

最後の 「謎々」 にはニンギルス神の名前があり、ニンギルスはラガシュ市の都市神であるが、同時にギルス地区を守護する神でもあるから、答えは当然 「ギルス地区」 を指すことになる。
これらは、「謎々」 の答えを考えながら、ラガシュ市の運河や神々の名前などを覚えられるように工夫されている。

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元祖学園もの
学校についての詳しい情報は前3000年紀のシュメル人が活躍していた時代からではなく、前2000年紀前半の古バビロニア時代の記録から得ることができる。その頃にはウル市、ニップル市、シッパル市などにも学校があった。

学校の構成員としては次のような人々が知られている。
ウンミア 「長」 やアブエドゥブバ 「粘土板の家の父」 は現代の先生にあたり、シェシュガル 「兄」 は助手、ドゥムエドゥブバ 「粘土板の家の子」 は生徒になる。
また、元祖学園ものとでもいうべき、学校を題材とした文学も存在した。四作品が知られている。
学校に通う生徒の一日を伝える 『学校時代』、父と息子の質疑応答形式の会話から構成されている 『父親と厄介息子』、二人の学生が討論する過程から間接的に学校の教科がわかる 『口論する二人の生徒』 および学校の卒業生が彼らの受けた教育を回顧する 『監督官と書記の対話』 の四作品である。
これらの文学作品の末尾には 「学校で書かれた。ニサバ女神に栄えあれ」 と書かれていることから、文学の創作も学校でおこなわれていたと見られる。ニサバ女神は書記術の守差神である。
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学校時代
『学校時代』 は前2000年頃に書かれた短い作品で、作者は学校の先生であったと思われる。
作品は二つの部分に分かれる。前半は生徒が学校における活動や経験を一人称で語るが、自分の家に先生を招いてからの後半の出来事は三人称で語られている。
以下に前半の一部を紹介しよう。


「生徒よ、君はずいぶん前からどこへ行っているのですか」
「ばくは学校へ通っています」
「君は学校でなにをしていているのですか」

「ぼくは粘土板を大声で読み、お弁当を食べました。ぼくは新しい粘土板を作り、習字を書き終えました。学校が終わった後で、ぼくが帰宅すると、お父さんが座っていました。

ぼくはお父さんに今日習ったことを暗誦し、ぼくの粘土板を大声で読みました。お父さんは喜んでくれました。ぼくはお父さんの前に立ち、『のどが渇きました、水を下さい。おなかがすきました、パンを下さい。ぼくの足を洗って下さい、ベッドを出して下さい、ぼくは寝たいのです。朝にはぼくを (早く) 起こして下さい、遅刻できないのです、先生に鞭で叩かれます』 (といいました。)

朝起きるとぼくはお母さんの前に行き、『ぼくのお弁当を下さい、ぼくは学校へ行きます』 といいました。お母さんが二枚のパンをぼくに下さったので、ぼくはお母さんにあいさつをします。(中略)
ぼくは (校舎へ) 入って座り、そしてぼくの先生はぼくの粘土板を読みました。先生は 『間違っている』 といいました。そして先生はぼくを鞭で叩きました。(中略)

シュメル語の先生は 『なぜ君はアッカド語をしゃべるのか』 といいました。そして先生はぼくを鞭で叩きました。ぼくの先生は 『君の文字は下手だ』 といいました。そして先生はぼくを鞭で叩きました」 (後略)


この生徒は誤字を叱られ、シュメル語の発音が悪くアッカド語を話しているようだと叱られ、そのつど鞭で叩かれた。さらに、この後も生徒は許可なくしやべったといっては鞭で叩かれ、校舎を出たといっては鞭で叩かれ、とにかく散々な一日であった。
そこで生徒は父に先生をお招きして、もてなしてほしいと頼む。父は先生を家に招き、なつめやし酒を飲ませ、食事を出し、さらに新しい衣服などを贈って先生をもてなした。もてなされた先生は手のひらを返したように、この生徒をほめる。
後半に綴られている内容はほめられた話ではない。叱られたからといって、先生をもてなしてほしいと父に頼む生徒も生徒なら、息子可愛さに先生を招待した親ばかの父も父、もてなされたことによって態度をころりと変える先生も先生と、三人が三人ともあきれたことである。
だが、人間は常に法令や道徳を厳格に遵守して、高潔に生きているわけではなく、このようなことはいつの時代、どこでもありうることで、むしろシュメルもそうだったかと、逆に現代の日本人の共感を呼ぶ話かもしれない。
bento
弁当のパン

『学校時代』 にしたがえば、食事は一日二回で、朝食は食べなかったようだ。
生徒が昼食に持って行く弁当は二枚のニンダであった。ニンダは「パン」を意味するが、ほかに 「食物」 の意味もあり、絵文字は器の形であることから、最初は麦を粥あるいはオートミールにして食べていたようだ。

ベベルド・リム・ボウル p211】
この器はウルク文化期 (前3500−3100年頃) の遺跡から、一般的に大量に出土するベベルド・リム・ボウルの形であろうといわれている。ベベルド・リム・ボウルはろくろを使わずに、地面を掘りくぼめ、そこに粘土を押し付けて型作りした粗製の土器である。大量生産でき、日常使われたようだ。 パンの種類を表す名前は時代により変わったが、パンの焼き方や形はシュメル時代から現在までほとんど変化しなかったようである。現在のイラクで食べられているパンは、かまどで焼く平たい円形のパンである。シュメル時代にもパンはかまどのなかで薪を燃やした後のおき火を掻き出して、熱い床や灰のなかで焼くか、かまどの内側に平らに伸ばした生地を貼り付けて焼いたらしい。
このパンはかまどの内側に 「座らせた」 ことから、ニンダ・ドクルンドゥルソナと呼ばれたようだ。

ドクルンはシュメル語の動詞で、意味は 「(複数の人を)座らせる、棲みつかせる」 である。ニンダ一ドクルンドクルソナは典型的なパンとなり、そのうちにドクルンドクルソナが省略され、ニンダになったようだ。ニンダ・ドクルンドクルソナは一回の食事に二枚食べたようである。生徒が弁当に持って行ったのも、このニンダ-ドクルンドクルソナであっただろう。
パンの種類は、ある語彙集に86もの名前が記されているが、パン生地に使用された粉の種類となかに入れる具のちがいによる。たとえば 「白い油入りパン」 「黒い油入りパン」 「並の油入りパン」 のように一つ一つ名前がちがった。
シュメルには次のような諺がある。

貧乏人は死ぬべし、生きることができない。
  パンがあれば、塩がない。塩があれば、パンがない。
  (生きた) 仔羊がいれば、肉がない。
  肉があれば、(生きた) 仔羊がいない。
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書名目録とシユメルの文学作品
ニッブル市の学校には図書館があった。図書館はシュメル語でエイムダラという。エは 「家」 の意味である。イムグラは省略形で、正式名称イムグラギシュトゥク 「大声を出して読まれる粘土板」 に由来し、神殿で神官たちの教育のために使用した粘土板を指したようだ。
この図書館から 「目録」 が出土している。
学校の図書館に収蔵されていたと思われる62の作品を列挙した 「書名目録」 であって、このうち20作品は残存している。
「書名目録」 があったということは、それが必要なほど多数の文学作品があって、それを読む人々がいたということを意味する。シュメル人の知的水準の高さがうかがわれよう。

シュメルの文学の種類には神話、叙事詩、讃歌、知恵文学などがあったが、大多数は詩の形式であった。創作にはナル (讃歌を歌う歌手) や書記たちがかかわったようである。

シュメルの学校では講義要綱は統一されていたらしく、ニップル市の学校と同一の文学作品がウル市の学校でも書き写されている。
「目録」 に記されている書名は、その作品の冒頭の数句がそのまま使われた。豊能を司るイナンナ女神の死と復活が謳われた作品は現代では内容を要約した 『イナソナ女神の冥界下り』 と呼ばれているが、これは現代の学者が付けた書名である。「書名目録」 には 『アンガルタ、キガルシェ』 (「大きな天から大きな地へ」 の意味) と書かれている。なかには今日でも当時の書名で呼ばれている作品がある。バビロニアの創世神話 『エヌマ・ユリシュ』 で、アッカド語で 「上の方で(天が名付けられていなかった)ときに」 を意味する。
ほかにも 「書名目録」 には『エンリル神と鶴嘴 (つるはし) の創造』 や 『ギルガメシュとエンキドゥと冥界』 などの一連のギルガメシュを主人公とした作品群、本草で話した 『学校時代』 や第二章で紹介した 『農夫の教え』 のような多様な書名が挙げられている。
ニッブル出土の文学作品も含めて文学作品の多くは前2000年紀の前半に書かれたものである。これらについては終章であらためて話そう。
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詰め込み教育
現代日本のような 「ゆとり教育」 ではなく、シュメルの生徒たちは詰め込み教育を受けた。授業は厳しく、『学校時代』 にも書かれていたように罰として鞭で叩かれることも度々あった。

学校には1カ月30日のうち24日通った。生徒にとっては毎日が実に 「長い日」 であった。
6日の休みがあるが、そのうち3日は宗教上の休日だったので、本当の休日はたった3日であった。
もちろん義務教育ではなく、学校へ通えるのはごく少数の裕福な家庭の男子で授業料は衣類など、ある種の贈り物であったようだ。厳しい勉学を無事修了すれば、書記になれた。
書記になることは現代風にいえば役人になることで、社会の出世コースに乗れた。書記はシュメル社会のエリートであった。
なお、ウル第三王朝時代の円筒印章に見える 「書記」 の銘は、学校を終了した者の名誉号であるという。
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読み書き算数
いつでもどこでも学校教育の基本は大きくはちがわない。文字の読み書きができ、正確な計算ができることが必要とされ、たいくつであっても同じ学習を繰り返すことで生徒に集中力や持続力などを植え付ける。長い人生を生き抜くのに、集中力と持続力は欠かせない。シュメルでも同様であった。授業は楔形文字の読み書きから始まった。生徒はまず楔形文字の習字をした。たとえば 「ア」 「メ」 を繰り返し書いた粘土板や先生のお手本の文字を見て、生徒がまねて書いた粘土板も残っている。

学校では、前2000年紀前半の古バビロニア時代になってもシュメル語が教えられていた。
日常生活ではアッカド語が使われているなかで、書記ならば古典のシュメル語も読み書きできなくてはならなかった。シュメル語の諺は次のようにいっている。
楔形文字の習字 p215】

シュメル語を知らない書記、彼はどんな種類の書記なんだ。
シュメル語を知らない書記、彼はどこから訳を持って来ようというのか。

また、書記は物品の管理や畑の検地などをおこなうことから、六十進法を使ってさまざまな算数の練習問題も解かなくてはならなかった。畑の面積の計算、与えられた寸法の壁を作るのに必要な煉瓦の数、ある傾斜面を作るのに必要な土砂の量などがわからないと書記は務まらなかった。

シュメル語、算数のほかにも、法律、神話、 讃歌、祈祷文、音楽などのさまざまな教科が教えられていた。

面積の計算 六十進法の掛け算

面積の計算 p216】