イスラム教について
イスラム教といいますと、よく新聞、テレビで話題になるのは、ハイジャックしたとか、戦争とかいうことで、イスラムという宗教はなにか非常に危険な、ラディカルな宗教であるというように、お考えのむきもあろうかと思いますけれども、これは決してそれだけがイスラムであるということではございません。
他の宗教でもそうでありますけれども、イスラムにもいろんな顔がございます。
イスラム教徒
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さてイスラム教徒ですが、今日イスラム教徒のことを 「 ムスリム 」 と言いますけれども、その数は約九億とも言われております。
つい最近までは七億ということだったのでございますけれども、九億としますと、世界の総人口は五十数億ですから、だいたい六人にひとりぐらいの割合がイスラム教徒だということになるわけでありまして、これは大変な数なんですね。

皆さんはイスラム教というのは 「砂漠の宗教」 とお考えかと思いますけれども、たしかに乾燥地域がこの起源でありますけれども、けっして遊牧民の宗教ではなく、メッカという 商業都市 に生まれた商人の宗教だったのです。

東の方にいきまして、東南アジア、特にインドネシアにも、かなり多くの数のイスラム教徒がいるということです。
ここはご存知のように雨の多い湿潤地帯です。インドネシアの総人口は一億以上。日本の総人口とほぼ同じぐらいであります。

ですから、人口だけからいいますと、中心はメッカよりかなり東になります。

それから、インド。次に北アフリカから南の方に下がってブラック・アフリカ、さらに中国大陸、特に新疆ウイグル自治区の西の方。
それから旧ソ連邦の中央アジアのウズベキスタンカザフスタンそしてトルクメニスタン等の地域にトルコ系のイスラム教徒が住んでおります。

それから今問題になっているバルカン半島の旧ユーゴスラビア
今戦争の渦中にありますが、そこにもイスラム教徒が住んでおります。
バルカン半島といいますのは、旧オスマン帝国領でしたから、その影響でイスラム教徒はたくさんいる、ということになるわけです。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教 ・・ 一神教
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さて、そのイスラム教というのは、すでにご存知のように一神教であります。
一神教というのはこれはつまり唯一なる神を信仰する宗教ということです。イスラムの場合の唯一なる神はアラビア語でアッラーと申しますが、このアッラー以外は一切の神を否定する、ということであります。

一神教のなかにはユダヤ教、それからユダヤ教の中からでてきたキリスト教がありますけれども、このイスラム教と合わせて「姉妹宗教」と言いますか、要するに共通の根っこからでてきた宗教ということなんですね。
もちろん一番古いのはユダヤ教でありまして、そのつぎがキリスト教であり、最後に7世紀の初めに、イスラム教が生まれます。

マホメット、正確に申しますとムハンマドです。
このマホメットがある時、突如として神の啓示を受けた。そしてその啓示を述べ伝えるようになるわけでありますが、これがイスラムの起源です。

時代でいいますとマホメットが生まれたのが、紀元 570年頃です。
死んだのが 632年ですから、日本で申しますと推古時代、聖徳太子の頃ですね。
その頃このアラビヤ半島の一角に、イスラム教という信仰が興って、瞬く間にアラビヤ半島をでて、東西にその支配地域を拡大し、そしてササン朝ペルシアを倒し、さらにビザンツ帝国を浸食して北アフリカから、今の中近東、さらにインダス川流域に至る、こういう広大な地域を支配下に納めました。

「イスラーム」とはなにか
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そうした発展をたどるわけですが、まず「イスラム教」をアラビア語で正確に申しますと、「イスラーム」 と言います。イスラームという言葉、ここからイスラム教ということになるわけです。
より厳密に言うと「イスラーム教」ですが、この 「イスラーム」 という言葉の意味はなんでしょうか。
キリスト教はイエス・キリストを信仰する宗教。
仏教はブッダの教えを信仰する宗教でありますが、「イスラーム」 というのはキリスト教のようにイエスとか、キリストとかを信仰するということではないんです。

マホメット教という言い方をすることがありましたけれども(英語ではモハメダニズム)、これはマホメットを信仰しているように聞こえるのでそういう言い方はいけないということで、イスラム教徒自身の抗議の結果、今日ではあまり言いません。

この中におられる年輩の方は回教と言った方がいいかも知れませんね。回教あるいは回々教、フイフイ教。

日本では戦前戦中、植民地政策の一環として、中国大陸あるいは南方、今の東南アジア方面に進出していく。

そうした国策上、その地域の宗教であるイスラムを研究しなくてはいけないということで、中国回教の研究であるとか、あるいは東南アジアの回教の研究ということが一時盛んになったことがあります。

回教というのはこれはもともと、中国西方辺境の 「回紜」 (かいこつ・ウイグル) と言われたトルコ系の人々が信仰している宗教という意味で、「回教」となったわけです。ですから呼び名としては適切ではないわけでありまして、今日ではあまり回教という言い方はしなくなっております。
「イスラム」 あるいは 「イスラム教」 という言い方が、一番正しい言い方だと思います。

「イスラーム」の意味
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このイスラム教の聖典であります 『コーラン』 の中に、「なんじらの宗教はイスラームである」 (3章19節、5章3節)と言っているんですね。で、その場合のイスラームというのは、「本来のイスラーム」 の意味なのか、あるいは 「制度的な意味のイスラーム」 であるのか、ということをこれからお話します。

なんじらの宗教はイスラームである」、と『コーラン』の中で述べられているということは、『コーラン』 は 「唯一なる神アッラーの啓示の記録」 でありますから、神がこのように呼びなさい、と言ったということなんです。
ですからイスラム教徒は 「イスラーム」 という呼称に固執するわけです。
さて、そのイスラームという言葉の意味はなにかと申しますと、「帰依すること」 ということですね。
つまり、「絶対的に服従すること」 という意味なのです。

帰依するということ
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「イスラーム」 というのは動名詞でありまして、もともとは 「アスラマ」 (帰依する) という動詞の名詞形なんです。
「帰依する」 ということ、あるいは 「絶対的に服従する」 ということ。これがイスラームいうことの本来の意味なのですね。
帰依する」 というのは日本の宗教にもありますね。
仏教では 「南無」 ということを言いますね。
南無阿彌陀仏」 「南無妙法蓮華経」。

それは 「阿彌陀仏」 に帰依する。
「妙法蓮華経」 に帰依するということなんです。
ですからどの宗教にもやはり、絶対者、聖なるもの、神、あるいは絶対的な真理というものに帰依する、信仰するということがあります。そういう意味ではイスラムも他の宗教と共通なんですね。

ただ帰依すること、南無というのは、仏教の場合ですと、あるいはキリスト教の場合は信仰ですが、それは、神や仏がなにかあるひとつの行為をした、一般の衆生が救われるためになにかをした、そのドラマを全面的に受け入れることです。

阿彌陀仏の場合ですと、長年、無限といっていいほどの間修行をして、いろんな功徳を積む。そしてその功徳を自分の悟りの為にふり向けないで、一般の人たちの救済のためにふり向ける。
つまり、一般の人たちが救われるように誓願をする。そしてその誓願が成就した。

阿彌陀仏は以前は 「法蔵菩薩」 といったのですが、その菩薩が願をかけて、自分はその誓願が成就するまでは正覚はとらじと誓った。
つまり、悟りを得て涅槃に入ることはしないと誓った。そしてその願が成就した。
その証として、今、十万億土の西方浄土で悟りを得て教えを説いている。
だから衆生はそれを信じて、その阿彌陀仏の名前を念ずれば救われる、というドラマです。一途に信仰すれば、救われるということです。

キリスト教の場合ですと、イエス・キリストは全人類の罪をあがなうために自らの身を十字架の上で犠牲にした。そして、三日後に蘇って天上の神の右にあげられた、ということです。
だからイエス・キリストがそういうことをしたということ、そういった一種の物語、神話、ドラマを信じ、信仰すれば救われるということです。
そういう意味で 「南無」 とか 「帰依」 ということになるんですね。

ところがイスラム教の場合には、そういうドラマ」、専門用語でいいますと救済論」、それががないんですね
神様がなにかやってくれた。人間が救われるために、なにかやってくれた。
それをひたすら信じればいいんだ、というのとはちょっと違うんです。

イスラムの神
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どのように違うのかといいますと、イスラム教の神というのはそうしたドラマを演じなかった。
では、イスラム教の 「帰依」 するということはどういうことかというと、後で出てきますように、神の命令に従う。 しかも 「絶対的に無条件に従う」 ということなのです。

そしてその命令に従うことによって、その人が救われる。
救われるか、救われないか」 ということは、「命令に従うか、従わないか」 ということなんです。

そうした点でイスラム教は非常に現実的というか、実践的というか、あるいは現世的というか、そういう性格が強いといえるのではないかと思います。
とにかく 「イスラム教」 の 「イスラム」 という言葉の意味は 「絶対的に帰依する」 「服従する」 ということなんです。

「絶対的に服従する」 ということは、要するに、なにか神以外の目的の為にするということではなくて、「無条件に従う」 ということなんですね。そして、そのように帰依した人を 「ムスリム」 というんです。

ですから 「ムスリム」 というのは本来は 「帰依者」 という意味なんですね。

ムスリムになるということは、何か特別な苦行をしたり、世をすてたり、といったことをするのではなく、神が命令したように日常生活をするということです。
それが正しい生き方であります。つまり、イスラム的に正しく生きるということです。

本心はどの程度信仰しているかわからなくても、ムスリムの家族の一員として生まれたから、ムスリムであるということもあるかも知れません。そして、一つの宗教の名前として今日 「イスラム」 という呼び名が残っているわけですが、もともとはそのような意味なのですね。

イスラムという本来の意味はそのように帰依すること」。
これがイスラームという言葉の本来の意味です。

「なんじらの宗教はイスラームである」 ということは、なにも形式的にイスラム教の教団に所属するということではなくて、本来は 「本当に神に帰依する者」 「帰依した人」 「帰依した状態」 が宗教だということであります。それが本当のなんじらの宗教である、と考えられていたのだと思いますけれども、それはともかくとしまして、要するにイスラム教では、帰依の対象になるのは唯一なる神ということですね。
アッラー」 ということになるわけです。

ところで、この唯一なる神というのは、普通私達が神、あるいは神々という場合と若干違うんですね。
この神は世界を創った神ということです。
世界、そして人間も、神以外のものは一切神の被造物である、ということです。
だから神は、そうした被造物を越えた存在である。空間的にいえば、世界を越えた、世界の外にある存在である。そして世界を支配している、唯一なる主権者、支配者という存在ですね。

そうした神に比べれば人間、被造物というものは神が創ったものでありますから、弱い存在であり、神なんぞに比べれば吹けば飛ぶような、空しい存在でしかない、という訳であります。そこで、神に帰依するということですけれども、それは一体具体的にはどういうことなのか、ということですね。

イスラムで 「神に帰依する」 ということは、先ほど言いました仏教やキリスト教のように、「神様の方で人間の救いの為になにかをしてくれた。だからその神の業を信じなさい」、ということではないのです。

イスラムにおける「帰依すること」の意味
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では、イスラムの 「神に帰依する」 ということはどういうことなのか。

これは二つの場合に分けて考えることができます。
神というのは目に見えない存在ですから、具体的に、これは神である、とイメージすることは出来ません。その神は、先ほどいいましたように世界の創造者であるということになりますので、この世界の中の動き、現象、出来事、あるいは人間の歴史とか、そういったようなものはこれはすべてアッラーの」 (しるし) であるということなんですね。

「徴」 (しるし) というのはアラビア語で 「アーヤ」 といいます。
よくイランに関する新聞報道の中で、「アヤトラ」ということがいわれますね。
ホメイニさんが 「アヤトラ」 であるとかいわれますけれども、あれは正確にいいますとこの 「アーヤ」 なんですね。つまり 「アーヤトッラー」 「アーヤト・アッラー」。
すなわち 「アッラーのしるし」 ということなんですね。

今これは聖職者の称号になっておりますが、本来は 「徽」 (しるし) ということです。アッラーは世界の創造者でありますから、人間や、森羅万象一切は、神の意志と行為のあらわれですね。
ですからそういう世界の存在それ自体が、神の意志のあらわれである、ということなんですね。

人間と神のつきあいかた
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となれば、それに対して人間は、どのような対応をしなければならないのかということです。

この世の中の様々な動き、出来事、事件といったようなものは、これは人間にとって、さしあたって都合のいい場合もあれば、都合の悪い場合もあるわけですね。
雲仙普賢岳で火山が噴火して、土石流が流れて被害を被ったということは、これも 「アッラー」 の 「アーヤ」 なんですね。徽 (しるし) なんです。イスラム教にしてみれば・・・・

イスラムの神の命令とはなにか ・・ 来世における救い
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ここまでですと、なにも取り立ててイスラムだけに固有のものではないと思います。どの一神教にも、おそらくどの宗教にも当てはまることだろうと思いますけれども、イスラム教のイスラム教たる特徴はどこにあるかといいますと、この命令の内容が何であるのかということなのですね。

一体何を命令しているのか
その前提は何なのかということです。
その前にお話しなければならないのは、いま私達が生きているのは「現世」です。
ところが、イスラムでは現世の他に 「来世」 「あの世」 があるということですね。

それはどういうことかといいますと、この世はやがては終末を迎える。
終りになるということなんです。永遠に続くものではないのです。

どういう状態で終わるかということは、『コーラン』 に述べてありますが、要するに天変地異とか、そういうようなことがおこってこの世が終わる。今の秩序は崩壊する。そして、死者は全部「復活」する。復活するというのは蘇る、墓から死ぬ前の状態に戻されて生き返るということです。

そして復活した死者はひとり残らず裁かれる、と言うんです。
つまり、その人の生きていた時の信仰、それから行為、前世で何をしたのかということ。それが裁かれるというんです。
その時には、富や権力、地位、家族その他一切の地上的なものは全く関係がない。

恐ろしい話ですね。
アッラーが裁くのですけれども、その裁きのあと、その結果として、ある人は地獄に落とされ、ある人は天国に入れられるということなんです。

天国と地獄
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イスラムでは、中間的な煉獄という思想はありません
つまり地獄と天国の中間の場所というのはありませんので、信仰の状態、あるいは生前の行為によって、多少地獄の中にいて、そこで地獄の火で清められて、やがて天国へ迎え入れられるということになっているんです。
どうしようもない不信仰な悪い奴は永遠に地獄の中にいるわけです。
ですから問題は、「この世」 のことではなくて、「来世」 なんですね。来世において天国へ行くのか、地獄へ行くのか、ということです。もちろん、仏教にも極楽・地獄の思想がありますね。

皆さんはどうか知りませんが、今の若い人に天国とか地獄とか言ったって多分ピンとこないでしょう。
しかしこれは中近東、イスラム世界に行きましたら、当然のように信じられているのです。老婆心ながら言っておきますけれども、イスラム社会ではほんとのことと信じられているわけですからうっかりしたことを言ったりしますと変なことになります
来世、天国・地獄というものは、もう当然の前提として信仰されているわけですね。

ですから問題は、「どうやって天国へ行くのか、天国に生まれるのか」 ということになります。
天国の描写、地獄の描写はいろいろありますけれども、『コーラン』 を読めばいろいろおわかりになります。

イスラムでの天国というのは、一体どういうところなのか。
試しに 『コーラン』 をお読みになれば一番よろしいかと思いますが、女性にはどうも・・・。
女性が天国でどうなるか、ということについてはあまり書いてないんですね。
男性が天国へ行けばどうなるのかということは書いてあるんですが・・・

マホメットが現代において啓示を受けたのであれば、もうちょっと女性の立場についても、書いてあるのではないかと思いますが、なにしろ、あの頃は男性社会でしたから・・・・・・

理性的に暮らしても天国に行けるとは限らない
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それはともかくとしまして、どうやって天国に行くのか、天国に生まれるのか、ということは、これは人間にはわからないわけです。

確かに人間には、理性というものがあります。そしてこの地上で、この俗的な、現世での生活をどうやればいいのかということは、これはもう常識や理性というものがありますから、それによって行動すればほぼ間違いはないわけですけれども、問題は 「あの世」 においてはアッラーが裁くのでありますから、一体どうやればいいのか、ということですね。
必ずしもこの世的な理性に従った理性的な生活 すれば、アッラーがいいといってくれるかというと、そういう保証はないわけですね。
それでは人間はどうやってそれを知ればいいのか、ということですね。

ですから神は、人間に対する慈愛と恩恵からそういうような人間の立場をくんで、どうしたらいいのかということを知らせてきたということなんです。
それが 「預言者」 です。

ここでちょった脱線しますが、先ほどイスラム教、ユダヤ教、キリスト教は姉妹宗教であるということを言いました。
これはセム一神教だとか、アブラハム一神教とか言われていますけれども、また同根の宗教だということを言いましたけれども、それは『聖書』、つまり 『聖書』 の伝統を共有しているということなんです。

具体的に申しますと、キリスト教でいう 『旧約聖書』、それから 『新約聖書』 です。
ユダヤ教では新旧などという言い方はしませんで、『聖書』といえば、「律法の書(トーラー)」 と 「諸書」 のことで、これは 『旧約聖書』 のことなんですね。
そこに書かれていることは、天地の創造、アダムとイウ゛に始まる人類の歴史などごくおおまかな点では共通の遺産として持っているわけです。ただその共通の遺産をどのような視点でとらえるか、ということでこの三つの宗教というのは立場が違ってくるのですね。

預言者
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キリスト教ではイエス・キリストという神人が生まれて、死んで、復活した、ということを中心的な出来事として考える。
イスラム教ではマホメットが預言者であり、そして預言者として神の啓示を伝えたという歴史的な事実、出来事を中心的なものと考える。
ユダヤ教では出エジプト、エジプト脱出という事件があります。つまり神ヤハウェがモーセをして、イスラエルの民をエジプトで奴隷として使役されている状態から救い出させた。
つまり紅海の奇跡によってイスラエルの民を神が救い出した。そしてシナイ契約、シナイ山で神ヤハウェと契約を結んだ、ということがあります。

けれども、イスラムは一番若い宗教であるだけに、そうしたユダヤ教、キリスト教的な伝統というものをずっと共有しているわけです。
では、どのような視点からその伝統を解釈するかというと、マホメットが受けた啓示を中心にして見ていくわけですね。
具体的には 「厳密な一神教」 という視点です。

ユダヤ教もキリスト教も一神教ではあるが、厳格な、あるいは 「純粋な一神教」 とはみないのです。
つまり、キリスト教では人間であるイエスを神格化したとし、またユダヤ教はユダヤ民族に限定して、真に普遍的な一神教とはならなかった、とします。こうしてマホメットで啓示が完成したとします。

イスラムは一番若い宗教であるだけに、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、マホメットを預言者として認めません。マホメットはただの人間でしかないわけです。
そこで歴史の見方が分かれてくるわけですね。

最後の予言者 ・・ マホメット
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それはともかくとしましてマホメットは、「最後の預言者」 であるが、それまでにたくさんの預言者がつかわされたと言われます。
それはそうでしょう。神様が終末の時に 「裁き」 をするのですから、その時にどうやったらいいかということをなにも聞かされてなければ、裁きはできないわけですね。いい裁きをしようと思ってもできない。そこでそんなことがないように、どの民族にも預言者をつかわしている、ということを言うわけです。

最初の預言者はアダムです
アダムというのは 『旧約』 の 「創世記」 に出てきます。アダムを泥からつくって息を吹き込んだといわれます。そして楽園にいて蛇の誘惑に負けてそこを追放されたということになっています。預言者というのは、神からの啓示を受けた者、ということなんですね。

アダムが第一号の預言者で最後がマホメット、その間にモーセだとかイエスだとか、アブラハムだとか、ノアだとか、『聖書』 に名が出てくるそういう人たちは、みんな預言者ということになっているんです。
そのようにして神は人々を救うために、何をしたらいいのか、何を信仰したらいいのか、神はどういうものであるのかということを人間達に明らかにしてきた、というわけです。

マホメットは、610年にそのような最初の啓示を受けて、632年に死ぬまで、ずうーっと啓示を受け続けます。
そしてその啓示をマホメットが死んだあと記録したもの、それが 『コーラン』 と呼ばれるものです。
ですからその 『コーラン』 の中に、何を信じたらいいのか、何をすればいいのかということが書かれているということです。
そして、その中に記録されている神の命令に従って生きるということ。それが具体的な意味での 「帰依」 ということです。

神との契約
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ここで、「契約」 ということをお話しなければならないと思いますが、イスラム教では、人間が何をしなければならないのかということは、これは「神との契約」なのだということですね。
これはユダヤ教の場合にもあります。
この一神教の 「契約」 では、神が相手の契約なんです。
人間と神とが契約を結ぶのです。

私達の日本の神々、また古代オリエントなどでは都市国家がありますが、都市国家にはその都市の守り神、守護神というのがあります。
日本には氏神というのがあり、こうした氏神とか守護神というものは、都市、村と一体になっているわけです。
当然のことながら、氏神というものはいわゆる部族神だとか、土地の神ということでありますから、人間と神との関係というものはちょうど家族関係のようなものなんです。
家族を守る」 ということが氏神、守護神の最大の目的なんですね。

もちろん時にはその神々が怒りをあらわにすることがありますが、それは神がそれほどまでに守ってやっているのに、人間が神をないがしろにするから、警告の意味を含めて罰を与えるわけです。
親が子をしかるのと同じです。
しかしながら、そうしたいわば多神教的な環境の中での神と人間との関係は、自然的なきずなで結ばれていると言っていいものなのです。
これは家族を考えてみれば一番いいんですが、家族というのは、血のつながりで、家族であるがゆえに相互に愛しあい、大事にするということなのですね。
家族内の父親は、子供が正しい行ないをするから可愛いということではなくて、血がつながっているから可愛いんです。

ところが、契約の関係というのは契約を守るということ、契約通りに行動するということが重要で、こうした意味では非常に倫理的ですね。
ですから神と人間の関係というのもそうした意味では非常に厳しいものがあるわけです。
身内だからといってナアナアではいかないわけですね。
契約を守るか、守らないか、ということが神からの保護を受けるか、受けないかということの条件になるわけですからね。

そうした契約ということが、ここで言う 「神の命令」 なんです。
そしてそうした命令の具体的なものとして 『コーラン』 があるわけです。
その 『コーラン』 の中に書かれていることをいろいろと解釈して、そしてひとつの体系化したものとして作り上げたものが、「シャリーア」と言われるイスラム法です。

このイスラム法というのは、人間が世界の中で、この世の中でどう生活すれば一番正しいのか、というようなことを書いたもの、といってよろしいかと思います。
これはどういう儀礼をすればいいのか、どういうお祭をすればいいのか、というようなことだけではなくて、日常生活のあらゆる事柄について、神の意にかなうような生活をするにはどうすればよいかを明らかにしたものであります。
そのように生活すれば、審判の時に神のお目こぼしがあるだろう、ということなんです。

「何が神の意にかなうことなのか」ということは、神が直接命令したこと、あるいは間接的に命令したこと、そうしたものにしたがって生活すればそれが一番安全ではないかということなのです。そのようなものとして後の学者達が、いろいろ解釈して体系化したもの、それがイスラム法というものなのです。

ですから例えば、イスラム教というと、一夫多妻だとか、あるいは豚肉を食べてはいけないとか、いろんなことが言われますけれども、それらはみんなイスラム法に書かれていることなのです。















イスラム社会で、は食べてはいけない動物であることはよく知られています。
しかし厳密に言うと、食べていい動物は、反芻し、且つ蹄の割れているもの・・・とのことだそうです。
豚は蹄は割れているが、反芻しないから食べてはいけないもので、この二つの条件、反芻し且つ蹄の割れているものです。
そのほか、魚についても原則的にはのついたものだけしか食べてはいけないそうです。
あなごシャコえびいかたこ・・・・・はだめですですから、イスラム社会では 「すし屋」 はやっていけません(腐敗の進行度とも関係があるとのことです)。
また、空を飛ぶ生き物(鳥ほか)でも厳格な規制があって、はげわしとびからすふくろうこうもりを食べること許されません。
もっとも、あまり食べたいと思いませんが・・・・・・

宗教と国家
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問題なのは、マホメットが生きていた生活環境です。
初めはメッカです。
それから、マホメットはメッカを追われて隣の町に移住します。それが地図にありますメディナという町です。これはメッカから北の方に約 300キロ位行ったところにあります。

メッカというのは商人の町。
さきほど言いましたように、イスラム教は砂漠の宗教であると言われますが、それは決してイスラム教が遊牧民の宗教であるということではないのです。もともとはメッカの商人、大商人達、そうした商人達の中から生まれた宗教なのですね。

マホメットだって商売をやっていたのです。
そしてメッカの大商人達に教えを説いた。
ですけど商人達はそんなことを信じない。彼らには現世の富が最も重要ですから。
「終末なんてきはしない」、「来世なんてありはしない」、「この世でいかに地位と富を集めるか」 が重要で、それが一番価値ある生き方なのだという生活態度なのですから、なかなか受け入れられなかったわけです。
そしてマホメットは迫害を受けて 622年にメディナという町に逃げます。
622年という年が、後にイスラム暦の紀元元年になりますが、それはこのイスラム教の教えがメディナという町で、マホメットを預言者として受け入れられ、そして、そこで初めてひとつの教団(共同体)として、アダム以来の永い人類の歴史の中で初めて正しく社会に根付いたということです。

メッカの場合には迫害されてますから、正式の教団としてはまだ成立していなかったのです。それがメディナにおいて初めて成立する。
それはどういうことかと言いますと、今まではそうした「啓示を伝える」ということだったのですが、ようやく啓示が初めて社会の中に生かされるようになった、と考えられたわけです。

言ってみれば、マルクス以降、共産主義運動というのは思想運動として続いていたのが、1917年のロシア革命によって、ようやくその国家的な基盤ができた、というのと同じと考えていいかと思います。そうしたわけで、この 622年という年がイスラム暦の元年にされたのであります。

ただ、このようにイスラムが出てきた環境はアラブの部族社会なんです。
部族社会ですから、今日私達が考えるような国家とか帝国のようなものはなかったのです。もちろんその当時、イランにはササン朝帝国というものがありましたし、それから西の方では東ローマ帝国というのがありました。けれどもアラビア半島は、部族社会、部族がたくさんあって、それがいろいろ争っている社会です。

そうした中で、イスラムというひとつの宗教が核になってひとつの教団(共同体)ができ、そしてその教団がどんどん大きくなっていく。そしてその中でひとつの権力構造が出てくるわけです。それが国家になる。

ですからこの点がキリスト教の場合と典型的に違うのです。
キリスト教が出てきた紀元一世紀の頃というのは、すでに、今で言うパレスチナ地方はローマ帝国が支配をしていたのです。
ローマ帝国という大きな国家的な組織があったのです。
カエサル(皇帝)というのがちゃんといたのです。

ところが、イスラム教が出てきた時にはそうしたものはまったくなかったのです。
イスラム教が出てきて教団ができ、そして教団が発展して信徒たちがその教団を維持発展させる。そして防衛する。
そうした役割りを持ったものとして国家というものがでてきた。
イスラム共同体・教団は国家となったのであります
そうした国家の、教団の指導者を 「カリフ」 と言ったのです。

カリフ
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アラビヤ語で正確には「ハリーファ」と言いますけれども、このカリフというものは 「政治的な指導者」 でもあり、同時に 「宗教的な指導者」 でもあったのです。
現に預言者であるマホメットは、ただ単に神の教えを伝える、神からの啓示を伝えるというだけでなく、宗教的な問題についての相談にものったのですが、同時にいろいろな遠征、戦争もやるのです。ですからそうした意味で、軍事指導者でもあり、同時にまた争いごとを納めたり、裁いたりというような政治的な指導者でもあったわけです。

そのようにイスラムは、普通、私達が宗教は政治とは別の次元の領域と考えているものと若干違います。
それは、もともと国家があって、その中にひとつの小さな宗教集団として生まれてきたというのではなくて、教団が大きくなってそれがひとつの国家としての役割りをも持つようになってきた、ということです。

そうした宗教的指導者であり、また政治的な指導者でもあったマホメットが、そのような社会をまとめ、そしてその社会の発展、社会の集団的利益を維持、前進させる。その過程でいろいろな問題に直面し、その時にいろいろな啓示が下ってきたのです。こうした時にはこうしろとか、こういう場合にはああしなさい、といった啓示が下ってくる。そういうアドホック(暫定的)と言いますか、その場限りの特定の問題について、神が指示を与える、命令を与える。それを集めたもの、それが『コーラン』である、とお考えになればいいんじゃないかと思うんです。

『コーラン』 の内容というのはそういう意味で、非常に無限定なんです。
非常に幅が広い。
だから、こちらは宗教の問題であり、こちらは俗なる領域の問題である。こちらは教団であり、こちらは政治の領域である、というような区別というものはもともとははなかったんです。
そうした中で、イスラム法というものが一端成立し、神の権威として意味づけられますと、なかなか変わらないんです。

近代・現代におけるイスラム
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しかしながら前世紀の終わりから今世紀の始めにかけて、現実の近代的生活に合わない部分が出てくる。
これが特にヨーロッパの影響などを受けて、イスラム法の見直しをしなけりゃならん、というような動きが出てきたわけです。
これは近代化の過程と対応して出てきたのですが、どうもそれがうまくいかない。西洋的な近代化がなかなかうまくいかないということになって、最近のような復古運動が起きてきました。

うまくいかなかったことのひとつの現われが、1967年の第三次中東戦争で、リーダーであったエジプトがイスラエルにこっぴどくやっつけられ、負けたことです。
西洋的な近代化はイスラム社会ではうまくいかない。
結局、かつてのイスラムの教えに帰るしかないのではないか。
要するに西洋的な異質な文化というものを持ってきたってだめなのだ、というようなことが、イスラムの伝統回帰という運動となって出てきつつあります。

まとめ
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六信と五行、あるいは五柱

六信というのは、神、天使、預言者、啓典、来世、予定のことです。
五柱と言うのは、これは各々の信者がだれもがやらなければならない義務行為で、イスラム法の主要部分を五つにまとめたものであります。

すなわち信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼です。




東京大学文学部教授  中村廣治郎先生の講演文を抜粋させていただきました。