第1回 松戸オリエント協会セミナー
「オリエント文明と砂漠」
慶応義塾大学文学部教授
小川英雄先生
講演中の小川先生






 小川英雄先生の御経歴
昭和10年
昭和35年
   


現在
  

川崎市生
慶應義塾大学文学部卒業
ロンドン大学 ユトレヒト大学に留学
イスラエル イギリスで発掘調査に従事

慶應義塾大学文学部教授
文学博士
日本オリエント学会常務理事
 主な著書・翻訳書
   『古代のオリエント』  講談社
   『聖書の歴史を掘る』  東京新聞出版局
   『古代オリエントの宗教』  エルサレム文庫
   フェルマースレン『ミトラス教』  山本書店
   同 『キュベレとアッティス』  新地書房


目     次

1・文明の起源と遊牧民の出現

   文明は砂漠から生まれた
  オリエント・・・文明の起源
  文明の起源
  「文明が開ける」ということ
  文明社会と停滞社会
  遊牧民の社会
  農耕集落から都市へ
  遊牧民と騎馬民
  砂漠とは
  遊牧民と馬
  遊牧民の文明社会への侵入

2・ イブン・ハルドゥンの『歴史序説』

  イブン・ハルドゥン
  遊牧民対市民
  遊牧民・・・自由と質実剛健
  遊牧民の市民化
  遊牧民の都市化の記録

3・ナバテア人の定住運動

  ナバテア人の出現
  歴史を辿れる遊牧民・・・ナバテア人
  ナバテア人の遊牧生活と貿易
  隊商都市・ペトラ
  ナバテア人の都市生活

4・砂漠とオリエント宗教

  砂漠が宗教にとって持つ意味
  キリスト教・都市への布教
  砂漠の隠者・遊牧生活への回帰願望
  

ナバテア王名表








1・文明の起源と遊牧民の出現

文明は砂漠から生まれた

日本には本当の砂漠はありません。
鳥取砂漠というのがありますが、本格的な砂漠ではないことは明らかで、それに対してオリエントには砂漠がある。砂漠そのものは荒涼としたところで、文明がそこに花開くということは不可能です。

「オリエント文明と砂漠」とは相対するものである。
文明がある一方では荒涼とした砂漠が続いている。
そういうコントラストの世界がオリエントにはあります。

日本に砂漠はない。
オリエントには砂漠に暮らす遊牧民がおりますが、日本にはいない。
したがって、砂漠とか遊牧民というものについては我々は実感というものを持っておりません。

オリエントの人たちには「砂漠との戦い」があって、常に砂漠のことが、そして遊牧民のことが頭に入ってます。ちょっと旅行すれば、あちらこちらに遊牧民のテントも見かけます。その辺にオリエント、つまり中近東の人と日本人の生活の違い、意識の違いがあります。
砂漠は荒涼としたところで、文明は起こらないはずですが、他方では、オリエント文明とか中近東の古い文明について、皆さんいろいろお聞きになったことがあるかと思います。

地球上で最初に文明が起こったところは、このオリエントです。
最初の文明が起こったところに、文明とはコントラストをなす砂漠があります。
日本には砂漠はなく、しかも古代の間は後進国だったのです。中国の文明を学んで文明開花しました。しかし、その中国には砂漠がある。
ですから「砂漠と文明」というのは何かつきもののようなわけで、むしろ「砂漠のあるところこそ、最初に文明が開けてくる」、「文明の古い地域には砂漠がかならず在る」ということさえ言えるのではないでしょうか。

オリエント文明を理解するためには、砂漠というものを頭におかなければいけない。その辺が日本の文明を考えるのとは違うという点で、まず最初にこのことを強調しておきたいと思います。



オリエント・・・文明の起源

今申し上げましたように、地球上で一番早く文明が開けたのが、オリエントです。
オリエントといっても皆さんご存知のように広くていろいろな国があります。
オリエントのどこで最初に文明が開けたかを今の国にあてはめて言いますと、それはイラクとエジプトです。

サグロス山麓の大荒野
『古代メソポタミアの神々』(集英社刊)
三笠宮崇仁監修/岡田明子・小林登志子共著 より
あそこでどうして文明が開けたのかと、不思議に思う人があるかもしれません。
しかし、「文明は大河の流域に開ける」という言葉がまさしく当てはまります。イラクにはティグリス・ユーフラテスという二つの川が流れています。その下流域に文明が開けたのです。

一方では、エジプトですね。
貧しい国で、いろいろ社会問題がございます。そこでやはり地球上最古の文明がイラクと並んで開けたのです。

では「文明が開けた」というのは、どういうことを言っているのか。
どういうものを文明といっているのか。

ここで簡単に「文明の起源」についてお話しておこうと思います。

文明の起源

文明が生まれる」というのはどのようなことをさすのか、ということの前にまず最初に今から何年くらい前に文明いうものが生まれたか、をお話します。

紀元前3000年という数字が目安になります。
今から5000年前ですね。5000年前に文明が生まれた、といえばいいでしょう。
日本で文明が生まれたのは紀元後です。それよりも3000年も前ですから、日本人にとってはずいぶん古いとお考えになるかもしれません。

しかし人類の歴史は何十万年とあるわけですから、5000年前はごく最近の話です。それではどんな現象が起こったときに「文明が開けた」といえるでしょうか。

「紀元前3000年、今から5000年前にいったい何が起こったのか」ということを簡単にお話しておこうと思います。

「文明が開ける」ということ

「文明が開ける」以前の社会は「未開社会、部族社会」というものです。
今我々の回りに見るような文明社会は「階級社会」です。

階級社会には「私有財産制」があって貧富の差があり、それが階級をなしている。そうした階級制の社会が良いか悪いかは別にして、とにかく有産階級とそうでない人がいて、貧富の差がある。それは私有財産があるからなのです。
そこでは統治するものとされるものとがはっきり分れている。イラクとエジプトで文明が開けた当時の統治形態は王政でした。
つまり、「私有財産に基づく階級社会」ができた
支配する、統治するものとして王が現われ、「王政」が出現します。王は支配階級の頂点です。

文明が開けたことのもうひとつの目安、それは「文字」です。
文字というものが同じ頃生まれました。文字と王政とはどんな関係があるのでしょうか。

我々の社会は天皇が一番上にいる。イギリスには女王様がいる。天皇がいるかいないか、王様、女王様がいるかいないかと文字がどういう関係があるのか。

文明が生まれた当時はこれが「連動」しているんです。
王様が経済活動をするのに、いろいろ記録を付ける。
帳簿のようなものを付ける。そのために必要になって文字を発明したといっていいでしょう。
ですから勉強するために文字を使うとか、あるいは『バイブル』やお経を読むためとか、小説を読むためとか、最初はそういう場合とは用途が違いました。王が政治や経済を運営するために必要だったから文字を発明したのです。王自身が発明したとはいえませんが、王の命令や必要に応じて、誰かが発明したのです。

「王政」ができ、「文字」ができ、そういう社会の中でそれ以前の階級のない原始社会、共同体を中心とした部族社会、それが質的に転換して文明が生まれたのです。

文明が開けた、というもうひとつの目安に「金属器の出現」があります。
金属でものを作る。われわれにとって金属の道具というのはごくありふれて当たり前と思ってますが、それ以前はなかった。
王が現われ文字を使うようになった社会で初めて金属が使われるようになった。考えてみれば我々の身の回りにあるものは全部そのときに始まったということができます。

文明社会と停滞社会

エジプトとイラクでそうしたことが起こったといっても、それは王の身の回りのごく一部で起こったに過ぎない。王の支配下にある地域でも支配下にない地域も、文明の起こってこなかった地域はいわゆる後進国になってしまい、停滞した社会が続くことになります。
一方では文明が進んで行く。

文字も進歩します。
貧富の差も大きくなっていきます。王が巨大な建造物を建てたりしてさらに文明が発展する。

それに対して一方では停滞した社会、文明の発展や進歩が起こらない社会がオリエントの中にもありました。
もちろん地球上の他の社会は停滞したままで、日本も当時は縄文式の時代で、道具は石器。腰みのひとつで踊っていたという時代です。
文字も知らないし、王もいない。金属器も知らない。貝などを食べて細々と暮らしていた、と言うところです。停滞した変化のない社会が続いていたのです。

文明が起こったごく限られた地域の社会と停滞した社会。その二つのコントラストははっきりしている。
現在でもいわゆる先進国と後進国、低開発国との差は歴然としていて、低開発国はいつまでたっても浮かばれない。

古代からそうした問題があったのです。

遊牧民の社会

文明が生まれ「文明社会」ができる。
そして「停滞した社会」が取り残される。
さらにこの二つの社会の他に「遊牧社会」というものがありました。
「遊牧民」はいつごろから現われたのか。大雑把な数字でいうと紀元前8000年とお考えになったら良いと思います。日本では縄文時代の頃です。

昔ながらの焼畑農業

『古代メソポタミアの神々』(集英社刊)
三笠宮崇仁監修/岡田明子・小林登志子共著 より

その頃、オリエントで「農耕」が始まりました。
穀物、特に麦の生産が始まりました。
それと同時に「家畜の飼育」が始まりました。オリエントに行くと麦も自然種のものが生えています。それを使って農耕を始めました。そしてウロウロしている動物を馴らして家畜にする。

最初はどんな家畜があったかと言うと、羊とか山羊、それから豚、牛も飼われるようになりました。
豚はその後嫌われるようになりましたが、最初は羊、山羊のような小型の動物が中心だったようです。

このように、「農耕と牧畜」が始まったのは紀元前8000年頃のことです。それは文明が生まれる5000年ぐらい前のことです。
誰が牧畜したか、と言いますとひとつは農業をやってる人たちです。農業をすると同時に羊や山羊、牛を飼う。日本の農家もやっています。有畜農耕とでもいいましょうか。

ところがそういう人達以外に牧畜だけを専業とする人達も当時現われてきました。
それが遊牧民、遊牧社会です。
有畜農耕民と遊牧民、この二つが紀元前8000年頃に現われました。

ところで先ほども言いましたように、遊牧民というのは砂漠に暮らしている。
そこは文明が起こってこない。だから遊牧民の間からは文明は起こりませんでした。

農耕集落から都市へ

有畜農耕民は農業をやっていますから、農業の生産があがればたくさんの人口を養えます。
たくさんの人口を養うということは「集落」が大きくなることで、やがて「都市」が発生する。大きな社会が形成されていく。
そうした社会の中から、さっき言った王政に基づく最初の文明社会が生まれてきます。文明に向って社会が変動して行ったと言えます。

遊牧民はそのまま遊牧生活を続けて文明を生み出すことがなかった。そこで砂漠の遊牧民と、都市や大きな集落を拠点とする文明の民とのコントラストが起こってきます。
冒頭にお話した「文明と砂漠のコントラスト」。それは起源をたどって行くと、今お話したようなことが原因になって出来上がったのです。

オリエント文明と砂漠」、そのコントラストは紀元前8000年から紀元前3000年にかけての社会を大きく変化させ、動かしていった。
紀元前3000年頃文明が生まれてくると、有畜農耕民がそれを支え育てていきます。
しかし、その周囲には文明ができたのに、その文明の恩恵にあずからない遊牧民がいたのです。

遊牧民と騎馬民

遊牧民の他にオリエントの内部の話ではありませんが、「騎馬民」もおりました。
江上先生の唱えておられる「騎馬民族説」がございますが、騎馬民というのは馬を使います。
しかし、この時代オリエントに馬というものはおらず、当時のオリエント文明社会にはまったく知られておりませんでした。
アジア大陸の温帯、満州あたりからハンガリー位までの広い範囲の草原地帯には騎馬民族がおりましたが、それが江上先生の騎馬民族で、この騎馬民族はオリエントには時々しか関係してきません。このことはあとでちょと触れるかも知れませんが別にしておきます。

しかしここで言う遊牧民は、家畜を放牧しながら砂漠、砂漠周辺を流浪して歩いている砂漠の民です。
彼らは馬は使わなかったのでしょうか。
騎馬民族と言うと馬を使ってモンゴルで暮らしていることを想像しますね。

しかし、オリエントで馬を使うようになったのは後になってからです。最初のうちは「ロバ」を使っていました。ロバを使って遊牧し、羊や山羊を放牧して歩いていました。移動するときは、ロバの背中に家財道具を乗せて移動する。
それがオリエントの遊牧民の生活です。

そのうち「ラクダ」が現われます。
遊牧民というと普通ラクダを考えます。
今のオリエントにもラクダがたくさんいます。遊牧民を見学に行くとラクダがいて、いかにも遊牧民だという感じを受けますが、実はラクダは馬よりも後に出て来たもので、最初の遊牧民はロバを使っていたのです。もちろん有畜農耕民もロバを使っていました。王政に基づく国家ができても、物を運んだり人を乗せたりする家畜としてはロバを使っていました。
ロバを使って砂漠、砂漠周辺を放牧して歩いていた・・・・・・
それが遊牧民なのです。

砂漠とは

ここで「砂漠」という言葉の定義をお話しておきます。
砂漠は英語ではデザート、ギリシャ語ではエレモスといいます。砂漠には二種類あります。

ひとつは「荒野」です。
もうひとつが「砂の砂漠」です。つまり砂だらけの所は狭い意味での砂漠です。

荒野とはどのようなものか、といいますと砂はそこにはありません。ただゴツゴツした地表面が広がって、アチコチに石が転がっている。ちょうど月の表面のようですね。見渡すかぎり石がゴロゴロしていてあとは凹凸のある地形が広がっています。草もわずかしか生えない、色もない、そういう所です。それが荒野です。

日本にはそういう所はあまりありません。
オリエントで広い意味で砂漠と言うと荒野で、オリエントの大部分がそれです。ヨルダンは大部分が荒野です。シリアもそうですね。イスラエルあたりに行くと半分ぐらいは荒野です。

私が砂漠と言うと皆さんは砂が沢山ある所、例えばアラビア砂漠などを想像されると思いますが、実は私の頭の中の砂漠は、広い意味での砂漠で「荒野」も入っております。
狭い意味での砂漠はアラビアとか、イランの一部とか、ごく限られた所で見られますが、私はそれを指して砂漠と言ってるのではなくて、荒野を含めた広い意味での砂漠と言っているのです。

日本にない荒野
それが遊牧民の生活の舞台です。
そうした広い意味での砂漠というものを念頭においてオリエントの歴史を振り返ってみます。

遊牧民と馬

最初オリエントの歴史に現われてくるロバを連れた遊牧民に「アモリ人」がいます。これはシリアの辺りから出現しました。
アモリ人は文明が始まった紀元前3000年から1000年ぐらい過ぎた紀元前2000年頃姿を現して、文明を作った人達の社会、メソポタミア(イラク)の社会を破壊して歩いた人達です。その後今のパレスチナやシリアの辺にも侵入します。
シリア砂漠、つまり荒野の砂漠から出て来たアモリ人。それが文明を築いて来た人々の間に入って、そこを占領したのです。

つぎの遊牧民の集団「アラム人」が、それから数百年たった紀元前1200年頃、やはりシリア砂漠から現われて、あちらこちらに広がっていきます。アモリ人とアラム人とは発音が似てますので混同しやすいですが、時代が違う別の人達です。
アラム人も文明を築いた社会に入り、支配者にもなります。
この人達はラクダを連れていました。オリエントのラクダは単峰(ひとこぶ)ラクダで、中央アジアは双峰(ふたこぶ)ラクダ。このアラム人が単峰ラクダを連れて砂漠、荒野を歩いてオリエント中に広がっていきました。

紀元前の2世紀頃になりますと、馬を連れた遊牧民、「アラブ人」が馬を連れて遊牧しておりました。遊牧民で馬を連れて歩くようになったのはこの頃からです。
アラビア馬というのが有名ですし、サラブレッドはイギリスで作り出されたと言われてます。
アラビア馬とヨーロッパの馬をかけ合わしてサラブレットを作った、ということを聞いたことがありますが、その競争馬の基になるような立派な馬はアラビア馬です。それはもともとアラビアにいたのではなくて、紀元前2世紀頃からアラビアの遊牧民の間で姿を現してきたのです。
それより前の歴史家、例えばヘロドトスが書いたものを見ますと、「アラビアには馬はいない」、「ラクダが馬を見ると怒りだしたり、暴れたりするから、遊牧民は馬を使わない」と言うことが書いてあります。

ラクダと馬は仲が悪い。
だから遊牧民の間では、アラム人に習ってアラブ人もラクダを連れて遊牧していました。

紀元前2世紀頃になるとようやくアラブ系の人達が、馬を連れて遊牧するようになる、と言うことが歴史の記録でわかります。
アモリ人がロバを連れて遊牧していた頃、エジプトやメソポタミアはすでに文明が高くなり、エジプトでしたらファラオと言う王がいました。
紀元前2世紀頃、アラブ人が馬を連れて現われる遥か前の紀元前2000年頃、王が支配している文明の高いところに馬が入ってきたのです。当時「印欧語族の移動」と言うものが起こり、北方の騎馬民族世界から印欧語族がそれをもたらしたといわれてます。
この馬は遊牧民の間には採用されませんで、最初は、王政の下にあったエジプトやメソポタミアで王がそれを採用して軍隊に使いました。騎兵もいましたし、チャリオット(戦車)を馬に引かせました。紀元前2000年頃からそうした馬の使用法が起こったのです。

そういうわけで、馬というとすぐ騎馬民族を思い出したり、すぐに遊牧を考えたり、騎馬民族が使っているからきっと最初から遊牧民的なものであろう、と思うのは間違いなのです。オリエント史において、定住した文明人の社会では馬が現われていますが、遊牧しているアラブ人の世界、アラビア辺りではもともとは馬はいなかったといっていいのです。

それが紀元前2世紀頃となると後でお話するナバテア人が馬を使い始めて、アラビア馬の伝統が生まれてくるということになったのです。 
オリエントにおいて文明と遊牧民の関係はそのように、ロバやラクダ、そして馬が遊牧民と順々に結びついて次第に明らかになってくるのです。

遊牧民の文明社会への侵入

先ほどから触れているように、アモリ人やアラム人はロバやラクダを連れてシリア砂漠から現われました。そしてすでに文明が起こった地域、イラク、エジプト、シリア、パレスチナ方面に侵入する。
そのようにして「遊牧民が文明の社会に入り込んで、その文明を乗っ取る」という現象が起こってきます。
これは遊牧民の文明社会への攻撃、あるいは浸透という問題で、これが実はオリエント史で大事な問題の一つなのです。

遊牧民の社会と定着、定住した農民の社会とはまったく孤立して別個に社会を営んでいくのではなくて、例えば紀元前2000年のアモリ人、紀元前1200年頃のアラム人のように、ある時点、ある段階に来ると遊牧民の方が定住農耕民の社会に侵入して、その社会を乗っ取るという事を起こします。
これが「遊牧民の農耕社会への侵入」と言う現象です。

先ほど述べたように農耕社会と言うのは、一定の場所に居着いて社会を広げていくので最後には都市になります。
一定の場所に居着いて農業をやっているうちに、非常に人口が増えます。
そして、そこに階級社会がおこり「都市」になるのです。 
ですから遊牧民の文明社会への攻撃は、「都市が遊牧民に乗っ取られる」、というかたちをとる、と言えるのです。
そうした現象はオリエント史上に時々起きる偶発的な事態ではなく、周期的、定期的に起きるとさえ言うことが出来ます。それまでのオリエント社会を一新するということさえあったのです。文明人の社会を遊牧民が乗っ取る訳ですから、一時的にはその社会の文明は退化します。

ところが、乗っ取った遊牧民はたちまちのうちに文明化、都市化する。
遊牧生活をそのまま続けないで、文明社会に入りその先進社会のいろいろな良い点を学び取って自分も定住社会の住民になる。
都市の市民になる。そして農業を始めたりする。

これは今言ったように偶発的なものではなく、むしろ歴史の必然的な動きとして起こる非常に重要な現象なのです。
「遊牧社会は孤立したものではなくて、時には定住社会、国家とか、都市に向って侵入していく」。
オリエント社会の歴史のなかに、そうした動きがあるということに初めて気がつい歴史家がイブン・ハルドゥンです。



2・ イブン・ハルドゥンの『歴史序説』

イブン・ハルドゥン

イブン・ハルドゥンは今から7〜800年ほど前の1332年から1406年迄の中世のアラブの歴史学者です。
この人は『歴史序説』という本の中で「遊牧社会と文明社会は交互に入れ替わって歴史が発展する」ということを説いています。

それ以前には、「遊牧から定住に向う」というようなダイナミックな社会変動を理論としてまとめた人はいませんでした。
「遊牧民としての独特の社会がある」とか、「遊牧民が定住地を襲ってくる」ことに気がついた人はいましたが、こうした社会の動きを一般的理論としてまとめたのはイブン・ハルドゥンであり、そのために彼は歴史上最初の「歴史哲学者」であると言われてます。
この『歴史序説』は日本語になって、アジア経済研究所と岩波書店の両方から2種類の訳で出ています。

今言ったように、遊牧民というのは荒野に住んでいるから文明を持っていない。
着のみ着のままで過ごさなければいけない。
家もない。
天幕に住んでいる。ぎりぎりの必要物で暮らしている。

こんな状態で砂漠を歩いている人々などまず日本人では想像もつかないでしょうが、オリエントにはいるのです。
こういう人達が文明を築くと言うことはそのままではありませんから、遊牧民が歴史上に出てくる機会は少ない。
古代オリエントの歴史についての本をお読みになると、なになに王がどこそこを攻撃したとか、なになにと言う都市に高い文明が生まれたとかと書いてありますが、それは遊牧民ではなくて、一定の場所に住んでいる人達がやったことであります。

遊牧民対市民

皆さんは現在、都市の住民と農民が違うと考えておられると思います。
都市の住民の大部分は都市の中に住んでいて、松戸市とか東京とかで都会生活を営んでいる。農業はやっていない。中には、たまには農業をやっている方も居られるかも知れませんが、普通は都市の市民は農民ではないと言うのが常識となっています。
ところがそれはごく最近の事、つまり「産業革命」以後のことなのです。


それ以前には、都市の住民は基本的には農民でした。
農業をやりながら暮らしているうちに都市が出来る。
人が増えそれが組織化され支配関係が生まれてくる。
私有財産の世界、それが、都市です。
都市と農業とは矛盾するものではなくて、基本的には都市の市民は農民だったのです。
ですから「都市の市民と農民とは別箇のものではない」のです。

それでは「都市の市民すなわち農民と対立する者」は何かというと、それが「遊牧民」なのです。
「遊牧民対農民」、「遊牧民対都市の市民」、そう言う図式でお考えにならなければいけないのです。
日本人にはなかなか考えにくい図式です。
遊牧民・・・自由と質実剛健

イブン・ハルドゥンは北アフリカのチュニスで生まれた人です。
チュニスの辺りにも遊牧民はいます。そして、イブン・ハルドゥンの祖先は南アラビアのハドラマウトというところの出身です。彼はそのようにアラビアの血筋を引いている。だから彼の頭の中には今言ったような「遊牧民と都市」、「遊牧民と農民」というコントラストが定着しているのです。

彼は独創的な学者でした。両者の関係について初めて社会変動論をあみ出したのです。その具体的な内容についてお話していると何時間あっても足りませんが、まとめて言えばこうです。

遊牧民は何も持っていない。
天幕に住んで文明の利器などは何にもないぎりぎりの生活をしている彼らは、都市の市民から見れば野蛮な生活をしているように見えるが、道徳的・精神的な面で見ると、非常に健全で、質の高いものを持ってる。

なにしろ彼らは「自由」です。
我々は自由だと言っても、都市に住み政治的支配を受けています。
ところが、イブン・ハルドゥンの考える自由は「誰にも支配されない自由」なのです。
都市の住民とか農耕民は王に支配されているから自由ではない。
遊牧民こそ自由だ。
王の力の及ばないところで自由に暮らしている。

この自由という点では、古代からイブン・ハルドゥンまでそうした考えです。古い書物で自由という事が出てきたら、そうした意味だと思わなければいけません。
ハルドゥンから見れば、皆さんは都市の市民で、自由を失っているのです。
一方、遊牧民は道徳的に高く、「質実剛健」なのです。
質実剛健は皆さんも徳目として非常に良いものと思われるでしょう。今の政界の乱れた様子なんか見ると質実剛健とは逆さまで、これで良いのかとお思いになっていることでしょう。

遊牧民の市民化

イブン・ハルドゥンによると、都市に住んでいる人達は食物は幾らでもあり、暖かい着物を着て、立派な家に住んで贅沢をしている。
質実剛健の精神が失われ堕落の寸前なのだ。
そういう生活をしているから、支配されることに甘んじ、政治の堕落、乱れが起こるのだ、ということです。

遊牧民の間ではそうした事は絶対起こらなかった。

アモリ人:マリ王宮の彩色壁画
『古代メソポタミアの神々』(集英社刊)
三笠宮崇仁監修/岡田明子・小林登志子共著 より

そんな事していたら命が危ない。
だから倫理性、モラルが非常に高い。

それが先ほど述べたように、遊牧民であるアモリ人やアラム人が定住地に入っていって文明を乗っ取って、それを引き継ぐとどうなるか。
彼等も段々堕落して行く。
アモリ人もアラム人もあちこちで国家を造ったり、国家を造らないまでも都市の市民の間に混じって市民生活を営む。文明生活を始めるのです。そうすると、やはり都市の脆弱な気風にかぶれて、昔の質実剛健な気風というものを忘れていく。

遊牧民だった者が都市の住民となる。
質実剛健を忘れて軟弱な生活に慣れて王のいいなりになる。
賄賂なども使うようになる。
非常に堕落した生活がはびこる。

そうすると、社会が乱れてまた遊牧民に狙われる。
遊牧民は虎視眈々とそういう所を略奪してやろうとか、それを乗っ取ってやろうとして、狙っているのです。そしてそれを乗っ取る。
そうするとその遊牧民は文明にかぶれて、都市生活を営むようになる。それが都市生活を営んでいる間に堕落して、他の遊牧民にやられる・・・・・。

こういう循環が歴史の動きなのである、とイブン・ハルドゥンは言っているのです。
彼はいろいろな例を引いてますが、1つのセオリー、理論としてそう言っているのであり、歴史哲学の理論として、人間の社会というのはそのようにしてグルグル回っている、というのです。

遊牧民の都市化の記録

ではこの理論をオリエントにあてはめてみた場合、遊牧状態にあった者がだんだんと都市化し、定住民化し、農民化していくというような実例は、オリエントにおいて何処まで追跡できるのだろうか。
変化していく有様、社会が遊牧状態であった時期、そして都市化して王が支配するようになるまでの移り変わりについて、アモリ人やアラブ人については多少は追いかけられます。

しかし、それを実証的に史料に基づいてできる例というのは、そうは多くはありません。
なぜかと言うと、最初の遊牧民というのは文字を持っていません。
前に言いましたように、文字というのは王が発明させたものである。王というのは定住社会の支配者である。遊牧民の間には文字はないのです。
遊牧民があの定住地を乗っ取ってやろうと狙って攻撃を始めた最初の頃については、文字で記した記録は残っていません。

遊牧民が定住地や農民の社会を乗っ取ったり、都市を転覆させたりすると当然混乱が起きます。
そうした混乱状態のなかでは歴史の記録は残りません。
混乱が起こったらしい、ということがわかっても、混乱の実体を詳しく記した例などは余りないのです。

そのようなわけで、遊牧民が遊牧状態から都市の農民社会へと自らを変えていく有様が、本当に分かる例と言うのは、古代の場合はごく限られているのです。


3・ナバテア人の定住運動

ナバテア人の出現


ところが、ナバテア人については、それはかなりよく分かります。
私がここに書いた論文は(註・後記)私が若い時に、イブン・ハルドゥンの『歴史序説』とナバテア人の歴史を対比してみると両者はよく当てはまる、という事を書いたものです。
私は、そうした歴史を実際にたどれる最初の遊牧民はナバテア人ではないのか、と思います。

アモリ人やアラム人が砂漠に居た頃の生活の実体は何も分かりません。
遊牧生活をしていたのだろうとか、原始的な部族社会を営んでいたのだろうとかの程度しか分かりません。

しかしナバテア人については紀元前の 312年に初めて現われた当時のことが歴史の史料になっている。
これは農耕や国家が出現した時期からだいぶ後のことです。アレキサンダー大王より後です。
ですから、その頃になると彼等の周囲の文明地帯にたくさんの歴史家が現われてくる。シルクロードの時代ですからね。

紀元前 312年にナバテア人がまだ遊牧生活をしていたという記録を、ナバテア人自身でなく、周囲の文明時代の歴史家達が残しております。
ですから「こうした原始的な生活をおくっている頃からの記録をたどれる最初の遊牧民はナバテア人である。」と言っても過言ではないと思います。

それに対して歴史をたどれる最初の騎馬民はスキティア人、スキタイ人です。
スキタイ美術展が古代オリエント博物館で開かれたこともありました。
スキタイ人はヘロドトスにも出てきますから、紀元前の 6世紀頃からだいたいわかります。
その次は匈奴などですが、それは中央アジア、ユーラシア大陸奥地の歴史となりますから今回は省きます。

オリエント遊牧民でその遊牧生活から都市化、王国建設へのプロセスがはっきりたどれるのはナバテア人である。
そこでこのナバテア人についてお話しします。

歴史を辿れる遊牧民・・・ナバテア人

ナバテア人はどの辺に住んでいたかと言いますと今のヨルダン、それからイスラエルの南部、その辺に住んでいたのです。
ここに地図がございます。ナバテア人の中心地は何処にあったのかというと、地図の(イ)です。そこはペトラ (Petra)というところです。それから(ロ)と(ハ)すなわちアブダとかガザ、そういうところがナバテア人の出没したところです。特に、アブダはナバテア人の創立した都市です。
それから北の方に行って(ニ)はダマスカス、(ホ)はボスラという所です。

ボスラというのはイラクの南部にもあります。
この前の湾岸戦争でボスラとかバスラとかいう地名が新聞に出たことがあります。これと同じですが、古代ギリシャ・ローマの資料では(ホ)ボスラでなく、ボストラと言っていました。
ナバテア人はボスラやダマスカス、そして一時的にはシリア迄支配したことがあります。

ナバテア人は紀元前312年に現われて、それから300年位の間に勢力を広げました。
最初のうちは(イ)のペトラの辺りに住んでいた特殊な遊牧民ですが、古代オリエント史の中心的な地域、つまりメソポタミアやエジプトから離れていますし、古代のイラク文明、古代のエジプト文明が盛んだったころとは時間的にもずれており、余り歴史家に注目されないのです。
しかし、彼等についての少ない資料を調べていくと、まさに「歴史をたどれる初めてのオリエントの遊牧民」であるとさえ言えます。

ナバテア人の遊牧生活と貿易

紀元前 312年頃、彼等がどの様な生活をしていたか。
この「ペトラ」の周辺の人口は1万人位でした。
家はまだ持っていません。
ラクダを連れて遊牧生活をして歩いていた。それだけで見ると典型的な遊牧民です。

ところが、「彼等は南アラビアとガザの間を結ぶ貿易も従事している」、と書かれてある。
貿易と言うのは普通は都市の定住民がするのです。
貿易商と言うのは定住民の典型。都市の市民の典型です。
ところが、紀元前 312年頃に遊牧民であるナバテア人がラクダを使って貿易をしていたのです。


典型的な遊牧民のナバテア人が貿易にも手を出していた
稼いで、利益は当時の貨幣である銀で貰っていた。銀のかたまりを貰ってペトラの洞窟の中に隠していると書いてある。敵が襲ってくると女子供や銀を洞窟の中に隠して砂漠の中に逃げていく。農業はやっていない。一時的な隠れ家としてペトラという場所を利用している。そこは後にナバテア人の都市、首都となりますが、当時はまだそうした段階です。

ところがそれから100年たった紀元前2世紀になるとどうなったのか。
人口が増えたのです。
ナバテア人の社会が何十万という人口を抱えている、と書かれております。
多くの村が王によって支配されている。上述のように馬も使うようになったとも書かれています。ナバテア人が使った言語から分析すると、彼等はアラブ系の人達です。アラビア人の社会に馬が現われるのは、歴史上初めてです。

隊商都市・ペトラ

遊牧民の社会で段々と人口が増え、「ペトラ」を中心として定着して王が現われた。
それ以前はラクダだったのに馬も現われた。
その馬はナバテア人の王が率いている軍隊で使われ、騎兵部隊用に使われたのです。
そういう変動からさらに1世紀後、つまり紀元前1世紀から紀元1世紀ではどうなったのか。
ペトラが完全に「隊商都市」して出来上がっているのです。キャラバン・シティーです。

王がいて宮殿を持っている。


裁判所も造られている。
遊牧民は裁判所など持っていず、部族の掟によって総てを決めます。ところがペトラの裁判所では、外国人とナバテア人あるいは外国人同士のもめ事が裁かれる、ということが書かれてあります。

つまり初めはペトラはナバテア人の部族社会のためのものだったのが、300年のうちに外国人がたくさん来ている「国際都市」となっていたのです。もともと遊牧民の社会は排他的で他の者は入れないのです。それが紀元前1世紀頃から紀元1世紀になると、外国人がたくさんペトラに滞在して、ナバテア人と混ざって一緒に隊商貿易をしている。

王は宮殿に住んでいる。
そして宮殿では宴会も開かれ、お酒も飲んでいるんですね。ただ宴会の時のお酒の分量には限度が付けられていて、11杯までは呑んでも良いという制限があったようです。でも、純然たる遊牧民たちはお酒を呑みません。今でもイスラムの律法では、お酒はいけないとしてあります。

今のアラビアにも遊牧民はいますが、国家が定住化政策をとっているため定住化が進んでいます。
遊牧民をどんどん定住化させて、石油成金がヨーロッパ、東京の都市生活と変わらない贅沢な生活をしている。
遊牧生活とまったく違うものになっているのです。
そうするとお酒を呑みだすんですね。イスラムの法があるので、どこまで大っぴらにやっていいかは別ですが・・・・。

ナバテア人の都市生活

紀元前 312年頃のナバテア人はお酒どころじゃない。
お酒を造るための葡萄畑さえ持っていない。
しかし、王が生まれ、都市生活が始まると葡萄畑を持ってお酒の醸造をしていた。葡萄酒造りをしていた。それは考古学的な遺跡でもわかっています。
そのように遊牧社会を脱して完全に都市生活を営むように変わったのです。



紀元前 169年頃、つまり紀元前2世紀頃となると、先ほど言いましたように王が現われます。ここにナバテア王名表を記しました。(註・後記
1から14迄、王様が14人並んでいます。ナバテア人の王と言われるのはこれだけです。

一番最初のアレータスT世が紀元前 169年です。169の前に小さい字で“C”と書いてありますが、これは“約”という意味です。
紀元後の 106年まで全部で14人の王様が知られており、その間のだいたいの歴史がそこに書かれています。定住社会になったプロセスが、その王様が現われたことでも分かります。

そしてついにはその隊商都市の周りで農耕も始めました。
穀物は勿論ですが、ここは地中海世界ですから、地中海性の産物であるオリーブとか、葡萄とか、イチジクとか地中海性の産物を育てる農業を営むようになるんですね。
隊商都市というから隊商貿易だけで都会生活を営んでいるのかと言うと、そうではなくて農業もするようになるのです。

しかし彼等を遊牧から都市の住民に変えた契機、原因になったものは隊商貿易である。
隊商貿易で富を蓄え、その富が結局都会生活を建設させるのに貢献した。しかし、都会が出来た後には、農業も始めるのです。

農業をするようになったら、もう遊牧社会の逆さまですね
先ほど申し上げたように、オリエントで農業が始まったのは紀元前8000年頃、牧畜を始めたのも同じ頃です。
その頃から遊牧民と農耕民、有畜農耕民とが分かれていったのですから、そのコントラストをなす生活の2つの両極の間をわずか2〜300年の間にナバテア人社会が移動していったのです。
彼等は遊牧社会状態から定住した都市の農耕民に変わっていった。
この変化がナバテア人についてははっきりと辿れるのです。

「オリエント文明と砂漠」というテーマでお話して来ましたが、最初お話しました内容からすると、そのコントラスト、両極だけを強調していると取られたかも知れませんが、ここまでお聞きくださってナバテア人の社会をご覧になれば、両極はなしているが、その両者の間を人間の社会が変動しながら移動しいていった、ということがお分かり頂けるのではないかと思います。イブン・ハルドゥンの『歴史序説』をお読みになっても、それはお分かり頂けるのではないかと思います。

ただ両者の間は区別がつかなくなるのかと言うとそうではなく、その背景にはいつも砂漠があり、また定住社会があります。
社会は循環しつつ、変動していますが、自然的な背景はいつも違いがはっきりとしています。
その違いというものは、実はオリエントの宗教、特に古代オリエントの宗教がその中で非常に重要な役割を演じているのではないかと思いますので、これについてお話しておきます。


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4・砂漠とオリエント宗教

砂漠が宗教にとって持つ意味

遊牧民の宗教と定住した都会生活を送っている人達の宗教では違いがあります。
ある人は「遊牧生活を営んでいる人達は一神教的であり、都会生活を営んでいる人達は多神教的である」と考えています。
宗教学者でそう考えている人達がいますが、なかなかそうも言えない面があります。

砂漠というものが宗教にとって持つ意味には大きなものがあったのです。
と言うのは、さっきイブン・ハルドゥンの所でお話したように、砂漠での生活、つまり遊牧民の生活は、倫理性、つまりモラルが非常に高い、と言うことです。

立派な人格は砂漠でしか養えない。
砂漠ではぎりぎりの生活している。
そういう所でしか人間の本当の良さというものが発揮できない。
贅沢に馴染んでしまって、持たなくてもいい贅沢品についつい心をうばわれるということは、人間の本来の姿から言うと余計な、無用な事なのだ。

都会生活をしていると余計なことに心を奪われ、そのため人間が物欲の隷属状態に置かれてしまう。
物欲が強くなる。ティファニのダイヤモンドが欲しいとか、なにか高級な物が欲しくなってくるのですね。
そうすると、そうした人間の無限な欲望に付け込んで悪いことをする。
しかし、ぎりぎりの生活をしている遊牧民にはそんな余裕はないのです。
そのかわり、自由だ。
誰にも支配されない。そのように砂漠には道徳的に高いものがある。
これはイブン・ハルドゥンがそう考えていることですが、おそらく真実を言ってるのではないかと思われます。このことは宗教的にも重要ですね。

悩みがある時、困難に遭遇した時、宗教家にいろいろ相談する。
すると「ものに執着している。」「欲しい欲しいと思う気持ちが、色々迷いを生じさせる。」とお説教される。
「自分の本当の姿を見つめなさい。」「物欲を絶って裸一貫になったつもりで修行しなさい。そうすると自分というものが見えてくる。本来の姿が見えてくる。」などと言われる。
それは遊牧民の極限状態の生活と一致しているんです。
そうしたモラルというものは古代から高く評価されていたのです。

ユダヤ教やキリスト教の聖典である『旧約聖書』を読むと「レカブ人」という部族が姿を現しています。
この人達については称賛をもって書かれています。
「あなた方の子孫はいつまでも酒を呑んではならない。家を持たず、種をまかず、また葡萄畑を植えてはならない。またこれを所有してはならない。あなた方は生き永らえる間は、幕屋(まくや)に住んでいなさい。」

幕屋(まくや)というのは天幕つまりテントの事です。
家などは建てない。
このレカブ人という人達はそうした神様から命ぜられたことを忠実に守っていた。
それで『旧約聖書』では慎み深い立派な人達だと称賛して書かれている。

酒は呑まない。
家は建てない。
畑は耕さない。
ちょうど紀元前 312年当時のナバテア人みたいに、典型的な遊牧民なら誰でもやっているような生活が『聖書』の中で描かれている。
イスラム教でも「お酒は呑んではいけない」という有名なタブーがありますが、これは遊牧民の伝統から来たのではないかと私は思っています。

キリスト教・都市への布教

キリスト教は歴史からみても、初めの頃は都会の宗教として布教されていくんです。イエス・キリスト自身が都会人であったかどうかは何とも言えませんが・・・。

今のイスラエルの北部にガリラヤという地方があります。
キリストはその地方の人物です。
そこにナザレという町があります。当時からここは町だったようです。そしてキリストのお父さんは大工でした。
大工というのは家を建てる仕事ですから遊牧民ではないですね。都会人です。
ですからキリストも生まれつき都市的な傾向を持った人だったかも知れません。

彼の教えの中には、特に都会生活が良いのだとか、悪いなどは書かれていない。
お説教の内容を見ると、「野の花を見なさい」というように非常に純朴で素朴な生活を賛美しているように見えるところもある。
だからキリストの教えは都会的だとか、あるいは砂漠的だとかは、必ずしも言えないと思いますが、教えが広められたのは都会なのです。


シリア砂漠のベドウィンの天幕
『古代メソポタミアの神々』(集英社刊)
三笠宮崇仁監修/岡田明子・小林登志子共著 より
一番たくさんキリスト教の教えを広めた人はパウロ。このパウロは都会人です。
このパウロが地中海世界にキリストの教えを広め、キリスト教化が進んでいったのです。
当時何十万も人口があったタルソスという大きな町がありました。今のトルコの南東部にあります。今でも中位の都市ですが、古代では非常に有名な都市でした。

パウロ自身はタルソス市民であると名乗っているのです。遊牧民なんかではないよという意味です。
しかし、彼は遊牧民の天幕つまりテントを作る職人だったとも言われています。
天幕職人だから遊牧民とも関係があったようですが、実際に彼が教えを広めたのは都市中心で、アテネとかコリントとかローマとか、当時の大都市に教えを広げていった。田舎や遊牧民の世界には彼は広げなかった。
二代、三代と続く彼の弟子達も都市を拠点として教えを広げていったのです。

そのうちにローマ帝国にコンスタンティヌス大帝が現われます。
彼は 313年にキリスト教を公認して(註・ミラノ勅令)、次第にキリスト教はローマ帝国の国教になっていくのです。すぐ国教になったわけではないのですが、次第に国教化していきます。
ヨーロッパやイスラム諸国では一神教が国教です。
そうすると色々弊害も出てくる。
排他的ですから強制的に改宗させる。
そればかりではなく権力者と宗教家が結びついて宗教が腐敗していく現象も起こる。
コンスタンティヌス大帝以後のキリスト教はそうした道を辿って行きました。

皇帝が大宴会を催す。
するとキリスト教のトップにある司教や法王が宴席に連なったり、皇帝の言いなりに動くとかして、宗教が政治と結びついて、イブン・ハルドゥンの言葉で言えば、だんだん堕落するという形になっていく。
都会化し、洗練化されていきますが、本来持っている、清貧に甘んじるという良さが失われます。

紀元 313年以後4世紀になると、そうした弊害が出てくるのです。
するとその頃、宗教改革がすでに起こっています。
つまり、アントニウスという人を中心として、そうした都会化したキリスト教に対して反省がおこります。
都会生活では悪魔の誘惑に勝てない。
本来の人間の姿、宗教的な意味での本来の姿は、もっとぎりぎりの生活をして、贅沢などはしない。
そうしたぎりぎりの生活の中にでこそ、本当に神に喜ばれる本来の信仰者の姿が現われてくるのだ、という考えが起こってきます。
都会で宗教的生活をするということは矛盾だ、というのです。

砂漠の隠者・遊牧生活への回帰願望

こうして、砂漠に隠れ住む「砂漠の隠者」が出現します。
エジプトとかパレスチナの荒野、砂漠の奥、そうした所に洞窟があってそこに隠れ住んで、ぎりぎりの生活をする。
食事なども2〜3日でパンを何切れとか、水を何杯とかというぎりぎりの極限状態で暮らす。勿論贅沢な肉食とかご馳走を食べたりはしない。そうした生活をする人が非常に増えたのです。
キリスト教がだんだんと都会に広がっていったという事に対する反発ですね。

本当の人間の姿というものは、そうした都会生活にはないのだ。ぎりぎりの生活をしなくてはいけない、と砂漠で修道生活をする。

このような宗教批判は日本でも起こりました。
仏教が王朝の保護を受けて都会化すると、そのようにして俗塵にまみれることに対する反省が始まり、高野山や比叡山の山奥にこもるということが起こりました。
日本には砂漠がないので、山奥に入るのです。

そうした人がたくさん増えて、都会の人達からも称賛される。
「あれが人間のあるべき姿である」というので、都会の人達がそのような修道生活して、ぎりぎりの所にいる人達の所へ巡礼に行くことがオリエントで起こっております。
これは宗教の中にこのような「砂漠的な生活、遊牧生活といったものを称賛する気持」が何処かにまだ残っていることなのです。
その結果、砂漠の隠者が理想とされる時代が来ます。
後にはこのような人達の勢力が強くなりました。中には砂漠で隠者として名前をあげると、こんどはその名声を利用して、宗教界や政界に影響を与えようなどという人まで出てくる。それはさきほど述べた「遊牧民が定住社会に移って堕落していく」ことになるのです。

今申し上げましたように古代オリエント社会の最後に、キリスト教化という問題が起こります。
その過程で、砂漠の隠者という現象が現れる。
それはとりもなおさず、遊牧民対定住民というコントラストは古代のオリエント社会の最後にまで尾を引いているということなのです。

以上、非常に古いところからキリスト教が広がった時期までの歴史の長い道のりのなかで、「砂漠と定住地」「遊牧民と都市の市民」のコントラストの問題がどのように現われているか、というお話を申し上げた次第です。
ご静聴有難うございました。

平成4年12月12日**
大和証券松戸支店6階
大ホールにて講演
(註は編集部)
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文  献

斉藤信治著
ロストフツェフ著
イブン・ハルドゥン著
家島彦一著
小川英雄
小川英雄
小川英雄
『砂漠的人間』  桜井書店
『隊商都市』  新潮選書
『歴史序説』  アジア経済研究所  岩波書店
『イスラム世界の成立と国際商業』  岩波書店
「ナバテア王国の成立について」  『史学』 33-3/4
「ナバテア王国の経済活動について」  『オリエント』5-1
「ナバテア王オボダスの神格化について」 『史学』35-2/3



ナバテア王名表

 AretasTc.(アレータスT世)  169 BC 『マッカベイ書』下 5:8
 MalichusTc.(マリコスT世) 145 BC ヨセフス『ユダヤ古代誌』 131


 AretasU Erotimus c
.       (エロティムス) 
110 BC 南シリアへ進出

108 BC 【漢の武帝・朝鮮に四郡設置】 【日本・弥生文化・金石併用時代】







10



 AretasV c.   
 ObodasT(オボダスT世)  
 RabelT (ラベルT世)  
 AretasW Philhellenes
       (フィルヘレーネス) 
 ObodasU
 MalichusU
 ObodasV



96 BC 地中海岸進出
96-87 BC マッカベイ朝を破る
87 BC セレウコス朝と戦う
87-62 BC ダマスカスを支配 
62BC ローマの臣従国
62-47 BC (衰退期)
47-30 BC パルティアと協力
30- 9 BC 宰相シュライオスの支配
       ヘロデ朝に押される
25 BC ローマの南アラビア遠征

11

 AretasX Philodemus
       (フィロデモス)
9 BC-AD 40  ダマスカスを支配
  
AD 64 皇帝ネロ・キリスト教徒を迫害
12

 MalichusV  

AD 40-70 ローマ人のモンスーン貿易発見
遊牧民の南方からの進出(衰退期)
AD 40-60 パウロの伝道活動
AD 57 【倭奴国王・後漢に遣使】
13  RabelU Soter (ソテル)  AD 70-106  ローマによる併合
96-180 【ローマ五賢帝時代】   
14

 MalichusV 

AD106〜 ペトラ以南の支配? 
      アラビア属洲の設置
AD105 ? 【蔡倫・紙を発明】
AD238 【邪馬台国・女王卑弥呼・魏に遣使】
AD313 ローマ帝国・キリスト教を公認

小川先生の資料に加筆させていただきました
(網は参考年表・・・松戸オリエント協会)

掲載写真 タイムライフ 「砂漠」
古代メソポタミアの神々』 (集英社刊)
三笠宮崇仁監修/岡田明子・小林登志子共著

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C志乃能萌 (しののめ)
平成5年2月28日
発行者   松戸オリエント協会会長  小倉  孝
発行所   松戸オリエント協会事務局
    〒271 千葉県松戸市本町15−3
         距驍笂 0473-62-3716
編集者   松戸オリエント協会 編集委員会
非売品