公開講演 聖徳太子は実在するか

本講演録は平成12年、千葉県東葛支部第3回総会時の公開講演(松戸市教育委員会 松戸オリエント協会後援)のものです。
本文は先生の話し言葉をなるべくそのままに構成させていただきました。

ところで、本年11月10日、NHKではじめてのドラマ聖徳太子」が放映されます。
また、東京、名古屋、大阪で「聖徳太子展」が開催されます。

本講演およびドラマ、聖徳太子展をご覧いただき、より一層お楽しみ頂ければ幸いと思うところです。.

平成13年総会において、前年度の松戸市助役・石井敦子様の講演録 「元気な日本になるために」 とともに、配布させて頂きました。
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聖徳太子・二王子像 幽竹法眼筆 江戸時代宝暦13年(1763)

2007/12月 追加・更新
参考に右番組の画面を挿入させていただきました。
(松戸オリエント協会)
 NHK その時歴史が動いた
 10ch 「聖徳太子の超改革


目次

挨拶と石田先生のご紹介 讖偉の説
『聖徳太子は実在するか』 帰化人 五経博士
資料2 1 主な聖徳太子批判 仏教の受容
聖徳太子は実在しなかった 推古天皇即位の背景
推古朝までの中国情勢 遣隋使の実体
中国の冊封体制を拒否した日本 大将軍境部臣、新羅を攻める
律令と国家仏教のタイアップ 聖徳太子斑鳩に宮室を建つ
律令の中で仏教の果たす役割 小墾田宮と官位十二階
隋統一の意義 十七条の憲法
蘇我氏 壬生部を定む
聖徳太子関係年表 隋の国使・裴世清の来日


挨拶と石田先生のご紹介

本日は、公開講演ということで、多くの皆さんにおいでいただきまして、まことにありがとうございます。

昨年の総会には、元松戸市の助役をされて、今は本省・労働省にお帰りになりました石井淳子さんにお願いいたしました。
その時は、とにかく最近の日本には、あまり景気のいい話がないということで、「元気な日本になるために」という演題の講演をしていただきました。

その中でおもしろかったのは、講演のなかで、石井さんはインドのIT事情はすごい、と言う話をされました。
インドは英語圏でもあることもありますが、工業化を飛び越して、一気ににインターネットのほうへ進んでいる。
コンピュータのキーを打ち込む、という単純作業の仕事はどんどんインドにとられちゃうんじゃないか、ということもありました。それは昨年の10月の話です。

総理大臣の森さんは、今年の6月ごろにインドに行って、「インドはすごい!」 とたいへん驚き、「I Tだ、I T革命だ!」 などと言い出したのですが、我々のほうが森総理よりもいち早く、インドのIT革命を知っていたということでございます。

そうしたこともきっかけとなって、千葉県東葛支部はインターネットのホームページは昨年の講演後に準備し始め、森さんのインドからの帰国後の頃に開設ということになりました。


さて、本年は最初の節目の三年目です。
そこでの事業ということで、今回の講演は松戸市教育委員会の御後援を得まして、公開講演という事にいたしました。

今回御講演を頂く石田先生は、元青山学院文学部教授として教鞭をとられていた先生でございます。添付しました資料の中に、ご経歴、著作等のことも書いてございますが、『曼陀羅の研究』 という著作では、昭和天皇さんから学士院賞を受賞され、宮中で御進講をなされた先生でございます。
以前、皇居でその受賞の際のお話を、一杯飲りながら、お聞きしたことがありますがが、昭和天皇のお人柄も偲べるとともに、抱腹絶倒の楽しいお話も聞かせていただいたことがございます。


ところで、本日の演題の主人公・聖徳太子という方ですが、生年は確かなんだが、後のほうが不確かとかいうようなことで、最近学会では 「聖徳太子は本当にいたのだろうか?」 などといいう説が言われているそうでございますが、その辺につきましてお話しいただくということになりました。

今日お持ちした資料は、今日の日の為に先生が作ってくださったものですが、そのなかで、カラーの色刷りの資料は、先生が約一年半ほど掛けて作られたという、大作でございまして、「色分けしてある」 ということに大きな意味があるということだそうです。

ほかに資料1、2、3とありますが、この原稿を先生がお届け下さったのが昨晩の9時ごろでございまして、それで今朝、かつて青山学院時代は石田先生のゼミの学院生で、今は教鞭をとられている工藤先生と一緒に、朝から大車輪でコピーしたばかりの、プリントホヤホヤのもので、まだ湯気が立っているようなものでございます。

さて、お待たせいたしました。石田先生、よろしくお願いいたします。(拍手)


公開講演 聖徳太子は実在するか
文責/図版挿入  青山学院校友会千葉県東葛支部
聖徳太子関係系図へ
ただいまご紹介にあずかりました石田でございます。

じつは、講演を頼まれた時には、こんな大げさなものではなく、青山の人たち、10人ぐらいのなかで話をしてくれればいい、という程度のお話でございましたので、私も安心して、「聖徳太子は実在したか」なんて、非常にセンセーショナルな題をつけてしまったんでございます。

ところが、今私が行っている聖徳大学に行きましたら 「先生、講演されるんですって?」等といわれちゃったので、どうして漏れたのかと思っていたら、公開講演ということで、学校のなかに予告の紙を貼られちゃってるんです。
これはしまったと思って、もうそのときは遅かったんですね。こっちの知らないうちにどんどんやられちゃったんです・・・・・

そういうことになると、今度はだれが聞いているかわからないし、何かちゃんとしたプリントもつくらなきゃならないと思ったのですが、時間がなくて、ギリギリまでかかっちゃった、というようなわけでございます。
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聖徳太子批判

資料2をご覧いただきながらいきましょう。
資料2の1に 「主な聖徳太子批判」 というのがございます。
   資料2 1 主な聖徳太子批判
   久米  那武 『上宮太子実録』 上宮教会出版部 1905年
                (久米那武歴史著作集1)
津田左右吉 『日本古典の研究(下)』 岩波書店 1950年
                (津田左右吉全集2)
大山  誠一 『<聖徳太子>の誕生』 吉川弘文館 1990年


聖徳太子の没後、特に平安時代に太子信仰(松戸神社における聖徳太子生誕1300年祭の写真へリンク)が盛んになりまして、だんだん尾ひれがついてきます。
それが一世を風靡して、聖徳太子は偉い、偉いというようなことになったんでしょう。

明治になりまして、東京大学の国史学科ができその中から聖徳太子の実像について疑問が出始めました。

学者というのはいつも、権威があるといわれると、逆にあれはだめだと言いたいんですよね。
それで、日本書紀をはじめ、徹底的に怪しいところを全部ほじくって、これがほんとうの聖徳太子像である、というものがつくられはじめたのです。
それが 『上宮太子実録』 というもので、久米邦武という東大の先生の書かれたものです。

しかしその当時、聖徳太子を批判したりすることは、非常に外圧がかかることであり、久米先生はとうとう東大教授をやめることになってしまいました。1905年というと、大体明治38年のことです。
聖徳太子にはそういう霊力があるんでしょうか。

それから、1950年、昭和25年ごろ、津田左右吉という有名な先生ですが、『日本古典の研究』 という著作を岩波書店から出しました。
この先生は早稲田の先生だったんですが、文献的照査というものも非常に綿密で、一字一句おろそかにしない大変な学者でありまして、その先生が批判したのです。
この先生の説というものは、現在も学会において生きている部分が非常に多いのです。
この先生も、聖徳太子批判をやっているうちに、結局、早稲田をやめなきゃならない状況になっちゃった。
聖徳太子をやると、みんなやめなきゃならなくなっちゃう、というような妙な時代だったんでございます。
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その後、さしたる批判がなかったのですが、次は1999年(実際には平成9年ごろ)ですが、大山誠一さんという東大の国史学科を出た我々の後輩に当たる、大変な勉強家の先生が書かれました。


『古代史の謎』 実業之日本社 1997年12月18日発行

大山先生は弘前大学で学術論文として紀要を書かれたのですが、そのなかで、聖徳太子は全部日本書紀がつくり上げたものだ。「聖徳太子はいなかった」、と言うんです。

これはえらいことです。
聖徳太子は、日本書紀にもなければ、どこにもない。
日本書紀にあるのは、後で日本書紀編纂のときにいろいろ加工したんだ。だから、聖徳太子はいないんだという説です。
この説がそこでとどまっていれば、まだ学会的なものだったんですが、吉川弘文館から、1500円ぐらいで買える本で出たのです。しかも、聖徳太子はいないから、という前提ですから、括弧を付けて 「<聖徳太子>の誕生」 という書名です。
この本が歴史書で有名な 「吉川弘文館」 から、そうした買いやすい値段で発行されたのですから、歴史愛好家の人に全部広まったのです。

その本の発行される前、私が 「法隆寺の金堂の薬師が後である」 という論文を書いたときに、大山君が電話をかけてくれて、それに賛成してくれて、一度会いたいというので学士会館で会いました。
その時に大山君のその論文を読んだのですが、ちょっと極論のように感じました。
論旨はびりびりしているのですが、何か極端なので、「大山君、これはもう少しゆっくり最後にでも、こう思う・・・とでもやったら、・・・」などと、冗談を言いながら別れたんですが・・・

その後、これが発行されましたことろ、今度は朝日新聞がこれを夕刊で、「聖徳太子は実在しなかった」、と大々的にとりあげたのです。
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『古代史の謎』 実業之日本社 1997年12月18日発行

「聖徳太子は実在しなかった」

朝日新聞にとりあげたとなると、これは非常に反響が大きい。
私はその後太子は実在した、というほうに回ることになりました。
ほかの歴史の先生は、学問的には、この点はしたようで、この点はしないような、実在したような、実在しないような、などとおっしゃるのですが、私ははっきり 「実在した」 といって言いました。それが2月ごろでした。
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3月ごろになりましたら、東京新聞で、今度は日曜の見開きに、2面使って大々的に、「『聖徳太子は実在しなかった』・学会の激突」 と書いてありました。
天寿国繍帳」について記者に聞かれた時、大山君は 「あれは奈良時代になってつくり上げたものだ」 と、こう言うのですが、学問からいって、奈良時代というのはどうしても承服できない。
せいぜい下がっても7世紀末。もっと譲歩しても7世紀代で、8世紀に入ってつくり上げるということは非常に不可能だ、ということをそこに書いたのです。

5月になりましたら、今度は新潮社の 『新潮』 という雑誌に、今度は、「聖徳太子は実在しなかった」 という題で延々と書かれたのです。
まだ一般にはそれほどではないのですが、テレビでもやるということになったそうなのです。
テレビで放送するということになると、これは日本中に知られることで、そうなると私がいま勤めていて生徒に、「和をもって尊しとなす」、なんて言っている 「聖徳大学」 などは、えらいことになっちゃうんです。

天寿国曼荼羅繍帳(中宮寺蔵)
『日本史探訪第八集 聖徳太子』 角川書店
昭和48年7月30日発行
私も松戸の聖徳大学という学校にいることからも、ひとつ私なりに、果たして聖徳太子は今最先端の学問では、一体どうなのかということを、本日お話しようということになったわけでございます。

推古朝までの中国情勢

資料2の第2番目に、推古朝までの中国情勢というのがあります。

私の恩師の東大の教授の坂本太郎先生の 『聖徳太子』 という人物叢書が、吉川弘文館から出ておりますが、今までの聖徳太子の伝記などを見ますと、ほとんど日本でのことが主なんです。
しかし聖徳太子の出られた時期の日本はアジアのなかで非常な危機だったのです。
このことは教科書も書けばいいと思うんですが、ちっとも書かないんです。
それはどのような危機だったか?ということをお話ししていきたいと思います。
そこに中国の攻防の図ができておりますから、それを見ていただきたいと思います。
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2 推古朝までの中国情勢
  青字は日本および聖徳太子の歳taishi

後漢滅亡(220)以降乱立 ― 隋はじめて統一(539)
三国史 中  国           
280 東晋317 南朝 宋420 斉479 梁511 陳589 
北朝  東魏534  北斉577
後漢220 265 西晋300 五胡十六国386→ ↑北魏↓ 7才  ↓
北朝  西魏535  北周581  隋
270    異民族 16才
日  本
弥生220

雄略456

欽明539
石田先生作成



南北朝とも律令制中央集権国家を指向
律令のみならず、それを補充する格や式も南北朝時代に漸次形成され、隋代には律令格式成立




国家仏教の樹立へ
仏教は国家仏教の枠内にある限り、内政面で律令制と相互扶助的役割を果たすとともに、外国に対しては、文化水準のシンボルとして律令国家の勢威を示すものであれば、南北朝とともに仏教にはなみなみならぬ力を注いだ。

Aに後漢滅亡220)以降乱立とあります。
220年以降、中国は1回も統一しておりません。
に至って、 593年に初めて統一したのです。
それが聖徳太子ごろなんです。これはえらいことなんです。

年表をごらんください。
220年といいますと弥生時代でございます。
それから、456年ぐらい、雄略天皇のとき、今まで中国は冊封体制といって、日本の国王を東を安める将軍という意味で、「安東将軍」等と称しました。
中国は、日本を中国の1地方官の将軍として国王としました。それを冊封体制と言います。
中国が中心で、中国だけが皇帝で周りは国王です。
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中国の冊封体制を拒否した日本

日本は456、雄略天皇のとき、既に中国の冊封体制には入らない、とけとばしたのです。
それから、中国とは国交を断絶したんです。
この間、テレビを見ていたら、そこでも冊封体制があったようなことを言っていましたが、あれは大きな間違いで、456年には冊封体制を日本はけ飛ばしたんです。

456年から593年までは大変な時代ですよね。
約 150年近く冊封体制から離れて独立して海東の中に日本はいたのです。
中国の子分にならなかったのです。
欽明天皇という時代が539年で、推古天皇がつかれたのが593年。そうした時代でした

後漢の後が、で有名な三国志の三国時代です。

魏が滅びますと、今度は西晋が立ちます。
西晋が立ちますと、北から、また西域、あるいは蒙古のほうから、中国の黄河流域に蛮族がなだれ込んできます。ここに五胡、すなわち5つの蛮族が16の国を乱立したというので、これを五胡十六国の時代と言います。

そして、中国は中原の黄河流域を蛮族にとられてしまいました。
漢民族はしかたなく揚子江流域に下がっていく、というわけです。

七世紀の日本と大陸
『日本史探訪第八集 聖徳太子』 角川書店
昭和48年7月30日発行

そこに国を立てました。それが東晋で、その後、ここにありますように、という国が次々に興る。これを南朝と申します。
片一方では、雲崗や竜門に壮大なものをつくった北魏がこれを統一したのですが、その後、北魏は東魏西魏にわかれる。そして東魏の下が北斉、西魏の下が北周になります。

その次をちょっとごらんいただきたい。
北朝の北斉が滅んだのは577年。
そのとき聖徳太子は4歳です。

北周というものは内的に同族的なところがあって、禅譲のようなかたちで隋に譲りました。
革命で譲ったのではないのです。
北周が絶えたのが581年。その時の聖徳太子は10歳です。

そしてが興ってきます。
隋は北周を継いで、のし上ってきました。
残るのは南朝です。
この南朝589年に南朝を潰し、ここに初めて隋が統一しました。
そのときは太子は16歳でした。

隋の煬帝
『日本史探訪第八集 聖徳太子』 角川書店
昭和48年7月30日発行
そうした中国の不統一によって、595年から220年のおよそ370年の間、日本は1回も中国の脅威を受けおりません
ですから、仁徳陵とか応神陵などという、あのようなぬくぬくとでかいのがものが、できたんですね。

普通、教科書によれば、ああ、太子の時代はすごい時代だな、とみんな思うでしょうが、教科書というものは、こんなことは書きません。その点はどうかと思います。
そうした時代、まさに劇的な時代に聖徳太子は遭遇したわけです。

次にBですが、南朝も北朝も律令制中央集権国家を敷こうとしました。
日本は律令、律令と騒ぎますけれども、あのような律令は、南朝にも北朝にもできつつあったのです。
律令の制度というのは、政治を運営するのに効率がいいんです。
これはいいぞ、と、みんな律令に向けて進んだのです。
南朝でも北朝でも律令の制度がどんどん進んでいきました。

統一中国の脅威・・・律令制度

律令というものは、構造的にいいますと中央集権なんです。
強力な王権があって、中央に集中する。
だから統一国家、中央集権的な国家は、当然出てきてしかるべきなんです。
特に北朝のほうにおいてどんどん発達し、隋時代には、律令に格式という補足的な実際の運営的なものの細目までできあがりました。
南朝においても律令はかなりできつつありました。
アジアにおいてそうした動きのあった頃、聖徳太子は16歳、物心がつく思春期の時代でした。

別れ別れになっていたアジア(中国を中心とした)が統一したらどうなるか。
これは恐ろしいことです。
これを一番よく知っているのが国境を接している朝鮮でした。
新羅百済も戦々恐々たるもの。
果たせるかな、隋が統一をしたら、すぐ高句麗征伐に向かうのです

聖徳太子像 (左)七歳像 (右)三歳像
『日本史探訪第八集 聖徳太子』 角川書店
昭和48年7月30日発行

日本では蘇我氏が仏教で、物部氏中臣が仏教を廃仏したということを、仏教の面だけで考えていると正確なことはわかりません。
仏教は律令と密接に関係しているのです。この律令国家仏教というのは、北魏が統一してからタイアップしたのです。

律令と国家仏教のタイアップ

なぜタイアップしたか。
それは、五胡十六国のように乱立した種族が沢山あるところを統一するには、どうしたらいいか、からはじまりました。それは仏教によるのに限るのです。
仏教はユニバーサルなんです。
仏教は自分の心の中の問題ですから、どこの国でも通用します。
だから、衆生ととしてみんなが悟りに入っていく。いつの時代、どこでも通用する原理なんです。
これを適用すれば、乱立しているものも統一できる。

しかし、世の中というのは、“えいっ”と割り切れないところがおもしろいところなんです。
律令国家は皇帝が一番上におります。
皇帝がいて、その配下に官僚がおり、その下に一般民衆がいるという、律令国家の中央集権、階層制がありますね。
衆生を多く有しながら、階級制を有し、仏教こそ律令国家にいいんだという、おかしなことが平然と行われてきたわけです。
そして、北魏の王さまなどは、「皇帝は如来なり」、また、「役人は菩薩」、そして、「一般大衆は衆生だ」、というのです。そうした矛盾したものが合体しているところが、非常におもしろいところです。

こうしたことがわからないまま、日本ではすぐ仏教がどうしたとか、何したとだけ考えているんです。
異質なものが合体して、それなりにこれがプラスになっていく」、というおもしろさ、そこに歴史のおもしろさがあります。

律令の中で仏教の果たす役割

律令国家において、仏教は国家仏教の枠内にあっては、「皇帝は如来なり」、と言わせ、内政面では律令制と相互扶助的役割を果たすとともに、外国に対しては寺院を建てたり、仏像をつくったりして、芸術のシンボルとする誠意を示す等、南北朝ともに仏教にはなみなみならぬ精力を使ったのです。

北朝のほうは蛮族ですから、理屈はあまりわからないんです。
そうしたところでは、あのでかい雲崗の仏像等を作りましたが、あれは皇帝をあらわしているのです。
丸ビルぐらい大きなものを見た途端に、ああ、すげえ、もうこれに歯向かうことはできないなと思ってしまう・・・・。また、寺院もでかいのをつくって、そうしたもので嚇かして、心理的に統治しちゃうんです。

それに対して南方の漢民族というのはまた違うんですね。昔からインテリジェンスがあります。
「皇帝は如来なり? 冗談言うな。 おれは皇帝に対しては絶対に頭を下げないよ・・・」、と轟然として言い張なって、山の中に閉じこもったりする。
そうした連中が、まさにインテリですね。これの漢民族のインテリ性で、さっき言ったような北方は蛮族とは全く違います。

南朝では、「皇帝が如来とはけしからん」 という状態でした。
そのかわり、南朝のほうでは仏典を徹底的に勉強します。皇帝も、梁の武帝とか、宋代の王も経典を読み、講義をするのです。そして、王子にも講義をさせる。
そのために有名な高僧をどんどん王宮の中に招いて、いわゆるカルチャーを行う。そこが北朝と違うところです。

南北朝が統一した時も国家的統一だけでなく、仏教も学問的な講経の南朝と、片や巨大な寺や仏像をつくる (南朝も仏像をつくりましたが) 北朝系の統一がありましたが、隋においては講経の要素というものによって南北を統一したわけです。
そうして仏教も南北仏教が統一されてました。
日本はそのときの隋に直面するのです。
アジアはこうした情勢にありました。

次に3ですが、そうした状態における我が国の対応です。
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隋統一の意義

1・
隋統一の大変革の重要な意義を、果たして日本は認識していのでしょうか。
これはいつの時代でも言えることで、今の日本でもインテリゲンツィアと言われるところが、「情報、情報」 と言い、みんな、「そうか、そうか」 となりますね。
ところが、それで全部失敗してきていますね。インテリゲンツィアがもっとしっかりしていたら、そんなことはあり得ないわけです。

戦後のインテリゲンツィアは非常に弱体で、今度はそれに輪をかけてジャーナリズムが乗って、それに対して厳烈な批判をしない。
こういう状態が今の日本なんです。

それに対して隋統一の大変革のときに、隋は高句麗を攻めたんですから、日本だって、いつ攻めてこられるかわからない、というこの重大な意義を果たして認識していたか。

は、南北朝において律令制が整備されている中にあって、東海の孤島である日本は律令制前夜の状態で、律令なんて知らないんです。隋は律令格式がそろっているのに、日本は何にもない。

 南北朝は律令制に資するものとして仏教に力を注いでいるにもかかわらず、我が国は国家仏教の体制が全くない。
そればかりでなく、それ以前の仏教受容の可否をめぐって対立をしている。
これが飛鳥時代の日本の状態だったんです。こういうことは教科書にちっとも書いていないです。

そうしたことに、日本でだれがそれに対応できたか?蘇我氏です
蘇我氏のみが対応できたんです。
どうしてでしょうか。
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日出づる処の天子〜聖徳太子、理想国家建設の夢〜」より
2003年5月放送  挿入:松戸オリエント協会 2009年12月






蘇我氏
もちろん蘇我氏はそれを利用して、自分の権力を伸ばそうというのは事実です。
事実ですが、どうして対応できたかというのは、一つには、蘇我の配下には昔から帰化人がいたということです。
いわゆる渡来人です。渡来人が持って来た政治行政に必要なものは、やはり文字なんです。



馬子の墓と伝えられる石舞台
『日本史探訪第八集 聖徳太子』 角川書店
昭和48年7月30日発行
文字を知ることがいかに力を持つということか。
今は何でもないことですけれども、古代を見てみますときに、文字というものは大変なものです。
文字を知ることに、為政者は大変な力を注ぐ。
だから、蘇我氏は渡来人を呼び寄せて文字を学び、向こうの中国の文献を読み、そして新しい政策に資するように考えていたのです。
そして、日本書紀を見てもこの当時に律令制度の胎動が見られます。

資料1は年表でございます

聖徳太子関係年表
         石田尚豊先生 原本作成

478 雄略22 倭王武(わかたける・雄略)
宋に朝貢して以来、安東将軍の冊封体制から離れる
538 宣化3 百済より仏像・経論を伝う(“元興寺縁起”)
552 欽明13・10 百済・聖明王
.   金銅釈迦仏像一躯幡蓋・経巻等を献ず
15・2 五経博士交替・博士以外に曇慧らの9人僧
新来の道深ら7人僧にかえる


16・7

蘇我稲目(馬子の父)を吉備5郡(主に岡山県)に白猪屯倉を置かしむ


17・7

      〃       備前の児島郡に遣し葛城直を田令とす
554 敏達3 聖徳太子誕生
3・10 蘇我馬子を吉備国に派遣
白猪屯倉と4郡を増益して名籍(令制の戸籍・計帳に近いもの)を白猪および膾津に授く
577 3・10 北斎滅ぶ
577 10 6・2 私部(后妃一般のために置かれた部)を置く
11

6・11

百済国王・遣使の大郡王に託して、経論若干、禅師・比丘尼・咒禁師・造仏工・造寺工6人を献じ、難波の大別王寺に安置せしむ
581 12 10・2 ・開皇元年
北周の勅命の譲をうけ、隋興る
新都大興城造営の詔あり(『隋書』巻一)
国寺としての大興善寺の造営始まる(『続高僧伝』巻二十一)
584

13

13・9

百済より 鹿深臣が弥勒石像一躯 佐伯連仏像一躯将来
585


14


14・2


馬子大野の丘に塔を建て、舎利を塔の○○に収む(大会の設斎の中に舎利を見出す)
疫病起り死者続出
15 14・3 物部守屋・中臣勝海破仏
587 16 用明2・4 敏達没後、用明も病にかかり、馬子強引に豊国の法師を内裏に入れる
17

用明2・7

蘇我・物部両氏の争い  物部氏敗北  崇峻天皇即位
588 18 崇峻元・3 百済仏舎利、僧とともに寺工・鑢盤博士・瓦博士・画工等を献じ、飛鳥寺の造営始まる
589
19

隋・開皇9
隋 陳(南朝)を滅ぼし、南北朝統一
591

20



隋の開皇11年 文帝三宝紹隆の詔を出す(『歴代三宝紀』巻十二)
592 21 5・10 飛鳥寺の金堂と歩廊(回廊)建つ
22 5・12 崇峻暗殺  敏達后妃の推古女帝即位
593 23 推古元・正 飛鳥寺に仏舎利を安置した塔建つ
593

24

・正・4

聖徳太子摂政(『法隆寺法王帝説』 「島大臣<馬子>と共に天下の政を輔ける」)
594 25 ・2・2 三宝興隆の詔出る
.595 26 高句麗の慧慈と百済の慧聰来朝
太子慧慈をとおして内経(仏教)を習う
慧慈・慧聰は三宝の棟梁となる
596 27 4・11 飛鳥寺造り終え慧慈・慧聰  住僧となる
600 28 隋使派遣(『隋書』倭国伝)(『日本書紀に載らず
大将軍境部臣 新羅を攻め、任那の旧地を回復
29
601 30 ・2 辛酉) 10・・・大変革
皇太子 初めて宝宮を斑鳩に建つ
9・5 天皇耳梨の行宮に移る
讖偉の説 辛酉革命

 讖偉の説
後漢滅亡後、晋、隋も厳しく取り締まり、これに関する文書を焼き捨て衰えるが、その前に朝鮮を通じて日本に入る
新しい時代の始まりは辛酉の年(60年おき)に起こる。
1260年(60×21)を単位として歴史の時代は転換する説

推古天皇代に日本の古代史整理
推古天皇即位593年/庚申(かのえさる)

推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(推古9年)を革命の年・辛酉の年
と決め、その1260年前を歴史の転換点・神武天皇建国の年とした(皇紀元年辛酉の年)
この項千葉県東葛支部
参考・平泉澄著『少年日本史』皇學館大学出版部/ウィキペディア


602

31

10・2

太子の同母弟 来目皇子を将軍 二万五千を率い、四月筑紫に到着
603 32 11・10 推古天皇10月 小墾田宮に移る
11月  皇太子天皇に要請  
     大楯 ○ また旗幡に絵がく
12月  冠位の冠を与える
604 33 12・正 官位12階を諸臣に賜う(元旦の儀式
.
34 12・4 皇太子 親から肇て憲法17条を作る
35 12 朝礼を改む
宮門の出入は両手で地を押し、両脚で跪いて、門のしきりを超えて、立って行け
.605 36 13・4 釈迦丈六像・銅鋳造二躯 任挟待像に着手
高麗王黄金三百両を貢す
.606 37 14・7 天皇 皇太子に勝鬘経を講じさせ、三日間に及ぶ
(是歳法華経を岡本宮に講ず)
播磨水田百町を太子におくる  斑鳩寺に納る
607 38 15・2 壬生部を定む
39 15・7 小野妹子を隋に遣わさる
.608 40 16・6→8 隋の国使 裴世清一行六月難波に着き八月入京
飛鳥仏に対しては「来たりて之を奉る」(「丈六光銘」)とあり、礼拝したことが分かる(翌17年4月八日完成)

古代史新聞」 古代史新聞編纂委員会編  日本文芸社より 編者挿入

41

16・9

裴世清一行(12人)および留学生8人を遣隋使・小野妹子に添えて遷す
618 隋滅び唐興る
.
620 42 28 太子 蘇我馬子と協議して、天皇記及び国記を録す
.622 43 30・2 聖徳太子薨去  推古29年12月
用明天皇の妃で、太子の母である間人后が崩じ、太子と膳の妃は共に病臥し、翌、推古30年2月21日に妃逝く
翌22日太子薨去す
623 44 31・3 間人母后 妃 太子のために釈迦三尊像を造る  仏師は鞍作背止利
45 31・7 新羅大使来朝  仏像一具及び金塔あわせて舎利を貢る
また、大潅頂幡一具・小幡十二条を貢る
仏像は葛野の秦寺に、他は四天王寺に納む
625 46 33・1 高麗の僧 慧潅(三論初伝)を貢る  よりて僧正に任ず
632 47 舒明4・8 学問僧・霊雲(学問僧・新漢人・日文)帰朝(新羅経由)
48

10

福亮(呉よりの渡来僧 三論宗) 法起寺金堂を建立 弥勒像を造る
639 49 11・7 詔して、大宮および大寺を造らしむ 百済川の側りを以って宮殿とす
是を以って西の民は宮を造り、東の民は寺を造る
書直県を以って大匠とす
50

11・9

大宮の学問僧恵隠(志賀漢人・慧隠)  新羅の送使とともに入京
51 11・12 是の月に百済川の側に九重塔を建つ
640 52 12・10 大唐の学問僧・清安(南淵漢人請安) 学生・高向漢人玄理 新羅経由で帰国
641 53 13・10 天皇 百済宮に崩ず
645 54 皇極2・11 蘇我入鹿 山背大兄を害す 斑鳩宮焼失
55 大化(孝徳) 元・6 大化の改新を始む
645 大化改新 石田先生作成


今までお話したように、どんどん新しい発見ができていくと、これから古代史というものがいろいろな観点で変わってくるんじゃないか。
戦後の人は、天皇をけなせば進歩的だと思っているようです。そして持ち上げれば皇国史観だとみんなからたたかれるという潜在意識があるんです。

しかし、学問はとらわれちゃだめです。とらわれない気持ちで研究した古代史には、もっと新たな展開が示されるであろうということを私は確信しております。
きょうの話はこれで終わります。(拍手)

年表は、ここにページ数が打っております。全部1、2、3、4、5と最後まで番号が振っております。こうやっておきませんと、これからお話しすることもすぐ対応できないから、年表を片手に持って話を聞いていただきたい。

555年(推古16年)蘇我稲目とありますが、これは馬子の父でございます。

屯倉(みやけ)を吉備五郡主に、白猪屯倉(しらいのみやけ)を置かしむ、とありますが、屯倉(みやけ)というのは天皇直轄地です。吉備は現在の岡山で、昔から大和政権の重要な地点です。
そこに屯倉・天皇の領地を置きました。
そして、そこに皇室の権力を扶植するわけです。
そして、そこから米をどのように取って、どのように管理するかという合理的な、今までと違った前律令制的な技術のために、目付役として稲目を派遣して教えたのです。

その翌年には備前の児島郡に遣わして、葛城の直、大体大和は葛城が主ですからその直を田遣い ― 主に田んぼを統括する人 ― をおきました。

次は8です。1−8敏達3年を見てください。
今度は、稲目の息子の馬子を吉備の国に派遣して、白猪屯倉と田部をどんどん増して、屯倉を拡張する。
そして、その次はおもしろいんですね。
名籍(なのふみた・・・行政の戸籍計帳に近いものだと思います)を白猪及び膽津に授く。

帰化人 五経博士

これらを見ますと、律令制になる前に、蘇我氏は一つの前律令制的なものを知っていた、ということです。
なぜ知っていたかというのは、帰化系の問題があるわけです。

帰化系といいましても、蘇我の国は東漢人、 ― 「東」の「漢人」と書きまして、東漢人(やまとのあやひと)、それから今来(いまき)の(今来る漢人、これは新しい漢人です) ― そうした優秀な最先端の漢人を押さえていました。

継体朝から欽明朝、それから飛鳥にかけて五経博士がおりました。
百済はいつも新羅と高句麗から襲われておりました。
それに対して、日本に出兵を要請します。
すると、日本は、兵を出してやるかわりに、五経博士というインテリゲンツィアを日本によこせ、と言うわけです。

五経博士
とは中国の五経に精通した儒学者です。
そこで百済はその五経博士に医者、薬草を取る者や楽人(音楽家)など、エキスパートをつけて、日本にもたらしました。それも一度だけではなく4年間隔ぐらいでやるんです。

百済から来た人材を本当に有能な人材かどうか点検したうえで、兵をおくります。
百済のほうでも、日本からの兵が有望な軍隊かどうかチェックする。そしていいとなると、それならば五経博士をやろうという、こういうエクスチェンジがあったのです。
そのようにお互いに内容をチェックしながら4年ごとに行われました。

五経博士は微々たるものですが、ちょうど 「百済本紀」 という百済の歴史ができるころで、それと日本書紀がちょうど重なっておりますが、これは非常に資料的な価値があるものです。

そのように入って来たものは、日本の受付窓口の今来漢人とか、東漢人ぐらいでないとこれを消化できない。
五経博士というものを私の先輩の平野邦雄さんは人物分析しました。
先ほど申し上げた南朝のの人が随分と入ってまいりました。
ということは、日本は百済を通じてだけではだめだ。中国そのものの知識を得たいと、南朝の梁の五経博士を欲しい、ということになったのでしょう。
向こうの文献や百済と梁とは考古の遺物によっても、また考古学的にも百済と梁とは非常に緊密な交流があることははっきりしているのです。
だから、日本は百済を通して中国の南の梁の人間の学者を連れてきて、日本に扶植しようとしたことは確かなことです。

仏教の受容

次に仏教の受容の問題です。
これは年表の1、2、3、4(前記)にあります。これは後で見てください。

このようにして、仏教は日本の敏達、用明あたりで、特に馬子あたりになって急ピッチで日本に入ってくるわけです。
そして、飛鳥寺の創建ということになります。

しかし、その前に、敏達朝あたりで、馬子の気持ちになってみますと、律令制を日本に早く普及するにはどうしたらいいか。
しかし、律令は非常に複雑なので、何十年としなければ摂取できない。
ならば片一方の仏教だけでも入れよう。
隋の仏教国家に対応するような大きな寺をつくろう、ということになります。
(その寺を宇治寺と言っておりますが、法隆寺や四天王寺よりもずっと規模は大きく、規模からいったら国寺クラスです)

また、馬子は朝廷の中に武器を込めようとしたのですが、朝廷は頑として聞かない。
ねらいは、とにかく国寺をつくりたいことにあったんです。
しかしそれを拒否されたなら、律令制は進まない。
そこで、物部、中臣をぶった切るほかない。それで一気に殺します。

物部、中臣を暗殺した翌年に、飛鳥寺の創建が始まります
その年に、向こうからいろいろな公人たちがやって来るんです。でも、こんなことってできますか?  
これは事前の準備が十分できていたということです。
その当時、隋との対応が百済を通じ、百済から南朝を通じて、特に新羅を通じてかなりの情報が入ってきたと思うんです。





明日香村の遠望 
『日本史探訪第八集 聖徳太子』 角川書店
昭和48年7月30日発行
隋の状況、2ページの12にあります。隋開皇元年10月2日、北周から禅譲され隋が興りました。
興るやすぐ、新都の大興城造営の詔が下ったわけです。これは「随書」にあります。
そして国寺としての大興善寺造営を始めたのです。581年ですね。

このニュースも日本に入ってきていたと思うんです。
そしてこれからおくれることわずか7年で、588年に日本では飛鳥寺の建築が始まるのです。
これは、どう見ても、3年ぐらいの間に陰のルートで、むこうのニュースが十分入っているとしか思えません。
表向きの資料には書いてありません。
それは五経博士を通じて、ルートができ上がっていたからなんです。

いよいよ飛鳥寺ができます。規模はほとんど国寺です。隋に刺激されたのだろうと思います。
いままでは、今はアジア全体の立場から飛鳥朝を見てお話ししてまいりました。

聖徳太子  推古天皇即位の背景

さて、これから聖徳太子になりますが、そのまえに、日本の皇統の歴史の中から、どうして推古という女帝が起きたか、という問題を見ていきたいと思います。

今まで日本の歴史の中で天皇が女帝となったことがなかった。女帝が天皇についたということはまったく画期的なことです。この推古天皇即位の背景が大きな問題なのです。

継体朝には継体、安閑・宣化、欽明と南北対立があった、ということが歴史にありますが、それは表面の問題だけではなく、血縁の問題があったのだと私は思っています。昨今DNAというものが大きく取り扱われていますが、古代においてもそうなのです。血の問題は大きな問題なのです。
天皇の場合には、だれがそれを擁立するかということは非常に大きな問題です。
そこに天皇の血縁が重要な意味を持つのです。
そうしたことで系図をつくりました。
古いところは、大体、継体以前は 『古事記』 によりました。『古事記』 は信頼出来ます。我々の先輩の古代史の大家の井上光貞さんも、応神以降は歴史史実の上から信用できると言われております。
そこで、私は応神以降を取り上げてみました。

だれが、どの豪族を担ぎげるかという問題を、まず応神天皇から見てまいりましょう。
聖徳太子関係系図をご覧下さい。

(中略)

次の6ページの『隋書』により裏付けられる600608年における、我が国の隋への迅速な対応を年表を通して概観して見ようと思います。

これらの関係のなかに小墾田宮というものがあるのです。
それで小墾田宮に戻ります。
kenzui
遣隋使の実体

年表の3ページの21、600年、隋使派遣、隋書倭国伝、日本書紀に載らず、とありますね。
ここは日本書紀に載っていないのです
どうして載らなかったのか、というのは、日本にとってぐあいが悪いことだったからだと思いますが、こうした時にはむこうの歴史 『隋書倭国伝』 でやるのが一番確かなことです。

その日本の隋使の服装は埴輪の服装と同じです。あれが当時の日本の服装です。
ゲートルを巻いたようなのをして、ダボダボのを履いて、冠なんかしてないでしょう。そんな格好でノソノソ行ったんですよ。
一方隋はみんな冠つけて、朝儀の服装も階級によって色が違っていて、スカッと決まっていたんです。

そこに田舎者が、埴輪みたいなボコボコしたのが行ったんです。それだけでびっくりしちゃったんです。
話をしても、なにをわからないことばかり言ってるんだ、とドヤされ、ほうほうの体で帰ってきたんです。
日出づる処の天子〜聖徳太子、理想国家建設の夢〜」より
2003年5月放送  挿入:松戸オリエント協会 2009年12月





行った人間はこれが律令制の国家かと始めて知ったんでしょうな。
こんな状態で向こうに行けば、ばかにされるぐらいのことも・・・・。
それを身をもって体験したのですから、帰ってきてこれは何とかしなきゃならない。
しかし帰ってきて翌年に、すぐ何かできますか? 急にそんなことはできっこない。
そうした変革には、それなりの時間がかかってるんですよ。

その頃の聖徳太子の日本が狙っていることは、百済に加勢して新羅をやっつけることばかりでした。新羅をやっつけることに全力を投球してたんです。
しかし、この6年前に新羅は隋の冊封体制に入っているのです。
ですから交渉でも隋のご機嫌も伺っておかないといけない、という意味合いもあったんじゃないでしょうか。そこで実際に見てこさせよう、という発想があったと思うんです。
当時の海上交通を握っているのは新羅です。港を握られてますと隋と通行も貿易もできません。

大将軍境部臣、新羅を攻め、南の宮中を回復する

次に600年。
同じ年に「大将軍境部臣、新羅を攻め、南の宮中を回復する」とありますね。百済に加勢して対新羅戦争に向かってるんです。
新羅を攻める、というのが聖徳太子の一つの動きです。

斑鳩宮から法隆寺は、新羅路線なんです。
そこで、難波から新羅へ向かう。
片方は河内から、竹内街道から当麻寺を通って、難波に上がるのですが、そのルートを蘇我氏が握ってるんです。

聖徳太子斑鳩に宮室を建つ

601年、皇太子初めて宮室を斑鳩に建つ、とありますね。
しかし、その次に、5、天皇耳成の仮宮に移る、とありますが、私はこれを重視したわけです。

その宮移す理由は二つが考えられます。
一つは片方の宮が焼けたときに移るということ。

もう一つは新しい宮を建てるために移るということ。
それはその後に小墾田宮を建てるために推古天皇は耳成山の下に移ったんです。だから同時着工なんです。片や斑鳩宮、一方は小墾田宮。同時着工です。

585年に辛酉と書いてありますね。これは辛酉革命が起こりました。
これは「讖偉の説」というのが入ってきた証拠なんです。
「讖偉の説」というのは歴史の予測理論です。
それは60年周期(一運といいます)です。日本で言えば、還暦ですね。干支が一巡する60年です。
その21倍が1260年。これを一法といって、そのときに大変革がある、という説です。
その当時歴史の予測理論に中国のインテリもうつつを抜かしてたんですよ。
今ではばかばかしいことですが、共産主義は資本主義になるというのもありましたが、あれも予測理論です。

日本書紀の神武天皇の即位も1260年を基点にして元年にしてるんです。
それが皇紀元年で、ここが原点になるとしています。

こうした時に、斑鳩宮かつ小墾田宮をつくるということをスタートとし、ここから、隋使を派遣して、律令制状態に向かったのです。

 讖偉の説
後漢滅亡後、晋、隋も厳しく取り締まり、これに関する文書を焼き捨て衰えるが、その前に朝鮮を通じて日本に入る
新しい時代の始まりは辛酉の年(60年おき)に起こる。
1260年(60×21)を単位として歴史の時代は転換する説

推古天皇代に日本の古代史整理
推古天皇即位593年/庚申(かのえさる)

推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(推古9年)を革命の年・辛酉の年
と決め、その1260年前を歴史の転換点・神武天皇建国の年とした(皇紀元年辛酉の年)
この項千葉県東葛支部
参考・平泉澄著『少年日本史』皇學館大学出版部/ウィキペディア


小墾田宮と官位十二階

600年のところに矢印でずっと線が引っ張ってあります。
その線が4ページに移ってまだ線がありますが、5の41で終わっております。

それでは、この間に何が起こったかといいますと、4の32のところに推古天皇10月小墾田宮に移るとありますね。
新宮殿は3年かかってできたんです。書紀を見ますと、皇太子、天皇に要請して大盾、靫、旗を頼んだのです。これは儀仗兵ですよ。

この下にはおそらく物部の武力がつぶれたので、おそらく大伴、久米あたりが復活してきたんでしょう。
2月の末に始めはせっぱ詰まった状態で、次の 604年の正月にピカピカの新宮殿の小墾田宮で、諸氏に十二階を賜りました。元旦の儀式です。

それに間に合わせるために、官位十二階を諸氏に賜うために、12月の末にみんな配ってるんですよ。
こんな正月の儀式をやる。みんな帽子をかぶれ、と配ってるんですよ。
非常にせっぱ詰まったものです。

官位十二階の帽子をかぶらせる、というのは大変なことなんです。
帽子をかぶる。おまえは緑、おまえは赤だと言って、お互いの顔を見て、あいつはおれよりも上だとか、今まで豪族で威張ってたのが、こんな帽子か、なんてことになる。
このショックというものはすごいものですよね。今までの豪族制のヒエラルヒーというのは一挙に粉砕です。

しかし、それを粉砕しなきゃ、いわゆる官僚制律令制が成り立たちません。
いかに官僚制にするかということは、そういう豪族的な意識を粉砕して、一個人の能力によって階級を定めることにした。
それが官位十二階です。
憲法十七条と官位十二階の中身はこういうことなんです。

日出づる処の天子〜聖徳太子、理想国家建設の夢〜」より
2003年5月放送  挿入:松戸オリエント協会 2009年12月

十七条の憲法

翌年に皇太子が憲法十七条をつくります。
しかし、「太子は存在しなかった説」では、こんな難しいものを聖徳太子がつくれるはずがない。後の時代のものだ、と言うんですね。
国司も後の時代にできたんだと、いうんです。


 (左)憲法十七条『日本書紀』 (右)摂政太子像 法隆寺蔵
『日本史探訪第八集 聖徳太子』 角川書店   昭和48年7月30日発行

ところが古代をやっている人にとっては、国司というのは後のような国司ではないが、臨時的に、ある国に対して国造でばらばらになってるところを統括しにいき、完了するとまた戻る。そういう前国司的なものは既にできている、といっています。
憲法十七条全部についても、理論的な骨子を作ったということは、十分あり得たと思います。
なぜかというと、まず宮殿をつくって、次に今度はそこの官吏の位階制をつくり、律令制化する。
そうなると、人間の信条、心得というものがなければならん。
これは憲法というものではなく、官吏の心得服務規程というものでしょうか。

これは4条規定とか6条規定にあるんですが、みんな中国にあるんです。そうした律令制にまつわる冠務規定、それを日本でも踏襲したんだと思うんです。心得がなかったら、位をつくって中身は立たない。

その次を見てください。
604年12月、4月に心得をつくり、それで今度はその年に朝礼を改むとありますね。

朝礼というのは一つの礼ですよ。
中国は礼というのに非常にやかましいんですが、日本の官吏が一つの行動、礼に合った行動をとるかどうかというものは、中国的な人間が見た場合、それがきちっと宮廷内にできてなかったら、これはばかにされることおびただしいわけです。
埴輪のような格好の人間がうろついているようじゃ困る。だからそれをとにかくやらなくちゃいけないと。

日出づる処の天子〜聖徳太子、理想国家建設の夢〜」より
2003年5月放送  挿入:松戸オリエント協会 2009年12月

壬生部を定む

それから、その次に注目するのは、607年、38、壬生部を定む。
これは皇太子の経済基盤を定めたんです。
今までの太子じゃなくて、一つの経済基盤というものの中に太子ができた一つの証拠だと思うんです、壬生部を定むと。
だから、これはいわゆる妃や何かの場合でも、1−10を見てください。
私部(きさいちべ)というのは、后妃一般のために置かれた部なんです。
これも国家体制の中に今までグニャグニャしてたのを后妃と、その次は太子とそういうものを定めていった跡が非常に歴然としているわけです。こういう意味からも太子の存在というのは十分考えられると。

そして、いよいよ今度は内政的なものについてお話します。
606年、天皇が皇太子に勝鬘経を講じさせ3日に及ぶ
「何だ、聖徳太子なんて急にでき上がったものが、そんな講義なんかできるはずがない。中国のものを見て、ちょっと勝鬘経はこうこうです、なんて箇条書きみたいなものを言っただけだ」、と学者は言うわけです。
そんなものではないと私は思います。

なぜこうしたことをやったかといいますと、南朝は天子も講経、皇子も講経。
ただ、日本では推古天皇が勝鬘経。
勝鬘経というのは、インドでは女の人が講じたんですよ。だから女性と非常に深い関係がある。
僧侶が講じたんじゃいけないんです。皇太子が講じるというところに梁の武帝以来の伝統の、隋もそれを見た場合に、なるほどと納得できるわけです。また、それだけのことを太子はやれたんだと思います。

聖徳太子勝鬘経講讃讃像
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隋の国使・裴世清の来日

そしていよいよ 608年に、隋の国使裴世清らが6月の前に着き、入城します。
飛鳥大仏は、今も飛鳥寺にあります。おそらく金銅の立派な大仏だったんでしょう。翌年の4月にでき上がるので、その時はまだでき上がっていなかったのですが、一行は前年に未完製のものを見てる。見せたかったのでしょう。

それまでさんざん隋にけなされていましたが、わずかの間に全部日本はそれに負けないものをつくってしまったのです。裴世清が日本に来たというのは『隋書』に残っています。(3−28の『隋書』と書いてあります)
39、小野妹子隋に行く(607)、これも『隋書』でわかるんです。

こうして見ますと、日本書紀のこのあたりは完全に『隋書』によって裏づけられるということです。決して架空のでっち上げたものじゃないということなんです。

裴世清一行が難波に着いたときの記事がおもしろいんです。
そのころには帽子だけだった冠が、着物の色も全部色違いでできてるんです。
朝服まで全部できているんです。早いですね。中国と同じなんです。

どうして裴世清が日本に来たのかということは、資料2の6ページを参照して下さい。
これを日本書紀などは、単に裴世清といってるんですが、これは大変なことなのです。

裴世清についての飛鳥寺の銘文が元興寺縁起に載ってるんですよ。
その記事は日本書記よりも詳しいんです。
その中に裴世清は斑鳩寺の掌客だと書いてあります。
斑鳩寺というのはlなにかというと、中国における外国使節の接待を司る官省なんです。
妹子入隋の煬帝のときには、その下に省を設けて、司法官をおきました。多くの外国使節、その当時の中国から見ると30カ国ぐらい中国に来るんです。
蒙古も隋にやって来る。そこで客を接待する。その役がいわゆる掌客なんです。
そして接待するだけではなく、留学生の教育をした。日本書紀にありませんけど、隋書では30人ぐらい日本から坊さんが行っていることがわかりますす。

日出づる処の天子〜聖徳太子、理想国家建設の夢〜」より
2003年5月放送  挿入:松戸オリエント協会 2009年12月



こういうところに留学して、高度なものを学んだんです。そのためにそうした使節もあったというわけです。
こうした官省の掌客ですから、こういう客を司る役人であったので、偵察し、我が国ほか30カ国の状況をみんな知っているわけですよ。
そのときの日本のランクがどのくらいかということも、すぐわかるわかったはずです。
だから、日本を諸外国と比較して見て、煬帝に報告するには最適の人物だったのです。
私はこれを逆、見て行きますと、隋は小野妹子を狙ってたのではないか、と思います。

外国の使節が来たころは、表通りには立派な店を建てて、ひとつ裏に回ると畑だったという状態だった。明治維新のときの、銀座通りの表側に対して、裏は畑だというのと同じなんです。

朝日百科 日本の国宝別冊『国宝と歴史の旅』より 朝日新聞社 1999 石田先生講演資料

それでは小墾田宮というのはどこにあったか。これも5ページを見てください。
小墾田宮については、私が「飛鳥の曙」というんで、小墾田の新宮殿というんで、丸善の『学徒』という雑誌に書いたんです。そのときの図です。

今までの小墾田宮は、真中に道がずっと横に1本通っています。これが山田道です。

皆さんご存じの山田寺のずっと右のほうへ行くと安倍寺ですよね。
それをずっと下がってきて、山田寺の跡があって、ずっと下がっていくと右側に国立の飛鳥資料館があります。
それを今度ずっと山田道を進んでいきます。
すると、飛鳥川とぶつかるわけです。
飛鳥川を渡ったこの辺が昔、小墾田宮跡だと言われていたんです。

ところが最近、手前のほうのBの地点の雷丘(いかづちのおか)のすこし先のところを見ていたら、小墾田宮の古い井戸から土器(かわらけ)が出てきて、小墾田宮というのが出てきました。
それから、下のほうには付属の建物みたいなのが出てきた。それから、Fあたりには暗渠みたいなのがあって、ここから東のほうにすっと整地してある可能性がある。

奈良文研でどうもおかしいというので、山田道にトレンチを入れたんです。
ここにトレンチと書いてあります。
ここまでは平地なのですが、その先へ行くと、そこからは沼みたいになっているんです。

その沼あたりに全部石ころを入れて、全部それを平らにしてあります。非常に大規模です。
何百メートルにもわたっている。それが北に向かっている。すると、山田道のところから北に向かったところに、どうも小墾田宮はあるんじゃないかという推定ができるわけです。

私はかつて、青山の学生たちに演習をするために、そのあたりを何百枚か写真を撮ったことがありました。

天香久山からずっと垂線を下ろしてきます。
すると山田道の交点がDです。ここに私は知らないで立ったことがある。その時、ふっと耳成山が見えるんです。それを写真に撮ったんです。それが頭にあったんです。
朝日百科 日本の国宝別冊『国宝と歴史の旅』より 朝日新聞社 1999
石田先生講演資料

そこへ行き、山田道と天香久山の交点に立ったら、なんと、そこから耳成山が見えるんです。両方から小山が来て、この間 100メートルぐらいしかないんです。だから、ここに立つときのみ、これがきれいに真ん中に入るんですね。
朝日百科 日本の国宝別冊『国宝と歴史の旅』より  朝日新聞社 1999  石田先生講演資料

そして、天香久山からずっと垂線を下ろすと、天香久山の下にあとになって大宮大寺ができます。下のほうへ行くと漏刻、天下の時刻を定めるのはこの線にあるんです。

その先が仏頭山というところがスパッと真南の仏頭山と線が通るんです。
どうも仏頭山の下の太子の橘寺の、橘寺というのは本来南向きのが東向きにできているんです。それで、塔あたりのところを通っていた。

どうもこの辺を中心として小墾田宮があったんじゃないかという、推定がふさわしいと思ったんです。ここに立ちますと、天香久山、耳成山、それから左は畝傍山が見えるわけです。

こうしたところが一番ふさわしいと私は思うんですが、左の山田道のところに、もとの小墾田宮の跡Aとあります。その下に豊浦宮跡と書いてありますね。この黒いところは甘樫の丘なんです。この甘樫丘の上に蘇我氏がみんな盤踞していたわけ。

日出づる処の天子〜聖徳太子、理想国家建設の夢〜」より
2003年5月放送  挿入:松戸オリエント協会 2009年12月

小墾田宮の推定場所の発掘と宮殿の想像図


それで、推古天皇が即位すると豊浦宮にいたんですね。
それは一般住居みたいな宮殿だった。
それが、小墾田宮に来ますと、日本書紀の記述から、キシトシオさんという人がこれを復元したんです。この内容については、ここに書いてありますからお帰りになって読んでください。


石田先生講演資料
図(イノウエワタルという若い人が描いた墾田宮の朝政という概念図)で見ますと、まず宮門というものがある。
その下に左右に朝堂というものがある。右のほうはその後の難波宮ぐらいにはこういう朝堂院ができているんですが、非常にナイーヴな、朝堂院の前駆的なものですね。そして、その上に閤門があって、上に大殿がある。

これは、今までは天皇の生活空間と政治とがごっちゃになっていたのが、ここで載然と中国みたいに分裂したわけです。

そして、大門の昔の大殿、これが内裏になるわけです。それで、下が政治の1つの朝堂になる。全く今までと違った新しい宮殿ができたということはわかった。

すると、ここで先ほど、天皇と皇子、それといわゆる大臣という結びつきです。
その関係のひとつが王域です。大門を隔てて上は王域。内裏です。
下が神域で、ここに大臣とか群臣とか百僚とがいて、公卿(まえつきみ)と言いますが、これは地方豪族とか、いろんな豪族から出た者の官吏です。
こういうところからも公卿の時代に既に入りつつあったような気がします。

大連ができてくる雄略ごろから、公卿の合議制というものがある程度できていた。
大臣はこういった公卿をここで合議する。そして、それを天皇に上げる。
また天皇からも下がってくる。そうすると、推古天皇だけではぐあいが悪いので、そこで皇太子の役ができてくる。

簡単に摂政というものについてというのではなく、こうした宮の構造自体から考えられるんじゃないかということをお話ししたかったわけであります。
こうしたちょっとしたところを手がかりにして、ハイステップで充実したというところに、日本のすごいものがあると思うんです。

日出づる処の天子〜聖徳太子、理想国家建設の夢〜」より
2003年5月放送  挿入:松戸オリエント協会 2009年12月



さて、百済の慧慈が来たということですが、日本書紀ではその後に書いてありますが、あの太子を育てたと同様なことが、帰化人の中にもあります。子供のときから秀才にさらにどんどん秀才教育する。

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日出づる処の天子〜聖徳太子、理想国家建設の夢〜」より
2003年5月放送  挿入:松戸オリエント協会 2009年12月




我々の先生、東大の先生には、ほんとうにできる人がいたんです。 『吾妻鏡』 なんか全部暗唱しちゃっているんです。演習で人がなにを聞いても、それはなになにの第何巻の第何条にあるなどど言ってるんですから、ちょっとやそっとじゃない。そんなものへらへらへっちゃらで、そのうえドイツ語とかフランス語も平気でぺらぺらやるというんだから。ノーベル賞の湯川さんも、子供のときから漢籍の素読をやられたんです。だから、みんな昔の人は、論語と孟子は書いちゃうんです。でき方が違うんですよ。
そのときの太子も20歳を超えているくらいです。そこから習ったように思うのはとんでもない間違いで、大学院級のことを勉強していたんですよ。

ところで慧慈は朝鮮の北の仏教・北朝仏教だと思います。エソというのは百済で、これは南朝鮮仏教なんです。
飛鳥寺は北の朝鮮仏教と南の朝鮮仏教を一緒にもっているんです。おもしろいですね。
日本は南北仏教を一緒に吸収しようとしたわけです。

私は、『聖徳太子と玉虫厨子』(ウィキペディア「厨子」)という本を書いたのですが、その中で憲法十七条の仏教環境を徹底的に分析してみたんです。
法華義疏は太子のものじゃない、勝鬘経義疏は太子のものじゃない。あんなのは向こうから持ってきたものだ。それを太子の作だ。勝鬘帰経義疏と全く似たものが敦煌から出た、などといわれていましたが、勝鬘経義疏は使っていません。

それから、驚いたことは涅槃経(ウィキペディア)です。
涅槃経40巻を全部読んで、教理的分析をしてみました。すると、憲法十七条はぴたりと解決できるんです。
これは仏教史の人はやっていないです。

上宮法王定説を読んでみると、それは古典なんですかね。
慧慈の法師は法華経だと思っていました。すると、まず涅槃経を教えたと書いてあるんです。そのあとで法華経です。涅槃経が当時朝鮮に入っていたということは記録でわかっています。しかし慧慈が来るとなったら、注釈書みたいなのは持ってこなきゃならないんです。ハイグレードの大学院級の勉強ですから・・・

辛酉革命の 600年ぐらいまでに総知を集め、矛盾した論理を1つのものに統一しているということ。それと太子の遺訓の内容は教理的に全部つながるんです。

それから、もう一つは玉虫厨子という論文に書きました。
そのとき初めて、今まで気がつかなかった玉虫厨子は大乗の専用であるということがわかりました。

今まで仏教史で、飛鳥仏教というのはどういうものだとどこにも書いていません。しかし玉虫厨子というものが、様式の上からも、またいろいろな意味から、斑鳩宮の中に小さい仏殿があるのですが、その瓦の文様と玉虫厨子の文様とも一致するのです。

聖徳太子実在に反対している人の反対の理由は、聖徳太子の死んだ日が日本書紀と違っているということをいいます。しかし、法隆寺史料は全部合っているんです。
玉虫厨子(法隆寺) 朝日百科日本の国宝別冊『国宝と歴史の旅』より 朝日新聞社 1999
石田先生講演資料

資料3。

これが救世観音、夢殿のご本尊であります。
夢殿のご本尊で、法隆寺の講堂があるんです。大きい建物が、大宝殿がある。夢殿を改修するときに、そこに特別に出して、我々に見せくれました。

ところが仏像ではないんですよ。これには驚きましたね。
これは仏像ではなく、ほんとうに人の感じがするんです。だから、現し身だというのはほんとうにそうだと思います。
それから、この中の様式を美術の人が全部調べますと、絶対に7世紀の前半になるんです。
様式上後半には下がらないんです。大化の改新以前になるわけです。少なくとも舒明朝ぐらいにできたんじゃないかということが今の美術史学会の常識です。玉虫厨子を徹底的に研究した結果、これも大化の改新の前だと思うんです。飛鳥仏教。
これは頭のてっぺんから下まで、臍に差し込んであります。
そして、手、玉が全部クスノキの木1木で細部までつくり出してあるのです。ほとんど金を使っていません。宝冠とそれから光背のところを打つところだけが金属。
ほとんどはぎ足したがない。はぎ足しているのはほんの少しで、ほかは全部、徹底的に1木です。

これは1つの魂ですね。生きる魂。そうした点からも、これはやはり太子の現し身と言って過言ではないと思うんです。こういうものがあるということ自体が、聖徳太子の功績があったのではないでしょうか。
今までお話したように、どんどん新しい発見ができていくと、これから古代史というものがいろいろな観点で変わってくるんじゃないか。
戦後の人は、天皇をけなせば進歩的だと思っているようです。そして持ち上げれば皇国史観だとみんなからたたかれるという潜在意識があるんです。

しかし、学問はとらわれちゃだめです。とらわれない気持ちで研究した古代史には、もっと新たな展開が示されるであろうということを私は確信しております。
きょうの話はこれで終わります。(拍手)

観音菩薩立像(救世観音像)法隆寺夢殿
朝日百科日本の国宝別冊『国宝と歴史の旅』より
朝日新聞社 1999
石田先生講演資料

観音菩薩立像(救世観音像)法隆寺夢殿
朝日百科日本の国宝別冊『国宝と歴史の旅』より
朝日新聞社 1999

石田先生講演資料

今までお話したように、どんどん新しい発見ができていくと、これから古代史というものがいろいろな観点で変わってくるんじゃないか。
戦後の人は、天皇をけなせば進歩的だと思っているようです。そして持ち上げれば皇国史観だとみんなからたたかれるという潜在意識があるんです。

しかし、学問はとらわれちゃだめです。とらわれない気持ちで研究した古代史には、もっと新たな展開が示されるであろうということを私は確信しております。
きょうの話はこれで終わります。(拍手)

【司会】
ほんとうに後から随分大勢いらっしゃいまして、先生の気合の入った講演、先生が自分でつくられました膨大な資料とともに、ぜひとも大切にお持ち帰りになっていただきたいと思います。

このご講演のほうはテープを起こしまして、いずれインターネット上等において発表させていただくことになると思います。

先生、ほんとうにきょうはどうもありがとうございました。(拍手)

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