ユダヤ教の概要



ミクラーオート・ゲドーロート

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ミクラーオート・ゲドーロート

バビロニア・タルムードのごく一部

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バビロニア・タルムードのごく一部

タルムードの内部

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タルムードの内部
ユダヤ教は三大宗教の中でも最も長い歴史を持ち、他の二つの宗教の源であり、同時に多大な影響を与えてきた。ユダヤ教を知らずして、今日のキリスト教やイスラム教を語ることはできないといっても過言ではない。キリスト教で「旧約聖書」と呼ばれる聖書も「新約聖書」と同じ重要な書物とされ、イスラム教でも「モーセ五書」は「コーラン」に次いで重要視される。ユダヤ人であることとユダヤ教徒であることはほぼ同義に近く、血縁よりも行動と信仰が重要視されることも多い。そのため改宗にも時間がかかるため、単なる入信とは大きく異なる。このようにユダヤ教が民族的側面を持っているところも大きな特徴である。
一般的・形式的にいわれる「キリスト教」との区別は、聖書に記された救世主がイエス・キリストであると考える人々を「キリスト教」と言い、救世主は未だ存在せずその出現を待ち望んでいる人々が「ユダヤ教」と思われている。 しかし、ユダヤ教からの視点では、ユダヤ教はキリスト教やイスラム教と違い、信仰、教義よりも、その前提として、まず行為・行動の実践と学究をすすめる、しかしキリスト教は行動・行為よりも自己の心の内の信仰を重視するものが多く、イエスをメシアとする、原罪、贖罪、再臨の信仰など三要素ほか、さまざまな点において、すでに大きなユダヤ教との違いが指摘される
(例えば、アミーダー・アーレーヌー・ムーサーフなどを含んだシャハリート・ミンハー・マアリーブを行わず、シェマア・イスラーエールを唱えず、パーラーシャーを読まず、戸口のメズーザーに手を当てて祈りを行わず、シャッバートを行わず、食事とトイレの前の手洗いと祈りを行わず、カシュルートを実行せず、ミクラーとラビ文学の研究を行わず、信仰を重視するユダヤ教徒は良いユダヤ教徒とは言えない)。
つまり、「ユダヤ教」とその伝統・他との違いを無視し、形式的に見た他宗教・他民族との関係は、本質や意味を無視した、全く観念的・飛躍しすぎたものに過ぎないことになってしまう。


ユダヤ教では、宗教に関係なく、あらゆる「地上の全ての民が」(創世記)聖なるものに近づくことができる、救いを得ることができる、と考える。 キリスト教徒のように「イエスを信じるものが救いを得ることができる」などとは考えない。まして「信じるものは救われる」などという講義をするラビはとても考えられない。
このように、信仰に頼らず、行動・生活や民と関係があり、また(特にハシディズムに良く現れる概念であるが)唯一の神は遍在(maqom)するとも考える傾向があるため、ユダヤ教の内部はキリスト教的、またイスラム教的な意味での排他性は存在しない。


「ユダヤ教」を信仰する人々が「ユダヤ人」と呼ばれる
(しかし、かなり形式的に考えた場合、初期のキリスト教徒はすべてユダヤ人だったのであり、また「ユダヤ教」への改宗者もユダヤ人とされてきた。このことを考えると、「ユダヤ人」「ユダヤ人キリスト教徒」という名称そのものが矛盾を含んでいる。民族(血縁)か、宗教か「ユダヤ教」そのものが「民族宗教」的面を持っているのか、あるいは「宗教民族」ともいえるのか、といった問題につながる)。
世界中の全ての民族は「ユダヤ教」に改宗することによってユダヤ人となりうるのであり、ユダヤ人は他宗教に改宗することによってもはや狭い意味での「ユダヤ人」ではなくなってしまう
(「民族宗教」という言葉が使用されることはあっても、特定の地域・場面においての繋がりしかなく、改宗手続き・運動もなく日本人になる絶対的要素でもなく、日常生活の中での多種の実践と学びとも哲学・思想とも無縁の「神道」とは全く性質・意味の異なる部分である。
また、神道ははじめから抽象的な唯一神教ではなく、ミクラー・ミシュナー・ラビ文学のような書籍を持たず、個人の家庭で研究を行うわけでもない。また、日本は思想空白地帯とも言われる)。
その起源にどのような力が働いているのか知りえなくとも、優れたシステムとしてのヤハドゥートを伝え発展させていくことがユダヤ人の役割である。

聖書(ただ聖書は多分にキリスト教的表現。キリスト教徒によっての旧約聖書。「タナハ tanakh」、「ミクラー miqra'」と言う)を聖典とするが、成立状況が異なるので、書物の配列も異なる。タルムードをはじめとしたラビ文学の伝統は重要である。